2008年11月6日木曜日

当選決定

アメリカ大統領にオバマ氏が当選されましたね。
アメリカ国始まって以来の黒人大統領、
すごい、さすが自由と平等の国、アメリカ国。
アメリカン・ドリーム、アメリカ国。

本国の世論は色々あるかと思いますが、
ちょいとした歴史的瞬間、これも時勢ですな。

世間がこの当選に耳を傾けてる今日この頃、
一方ではこんな人選も決定された。

http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20081106mog00m200040000c.html

2008年10月15日水曜日

日本回天

本日、日本は正に回天。

10月14日、ココ

二条城にて徳川慶喜公、大政奉還案発表。

中に入ると発表された間で家老達が並んでましたな。
蝋人形で再現されて。

で、翌日の今日、朝廷が大政奉還案を受理。



ってゆうのがよく知られた歴史事実。

で、あまり(?)知られてないのが、
10月14日同日に倒幕の密勅が降りてること。
西郷・大久保・岩倉の武力倒幕派が推し進めていて
工作して工作して、
やっと
手に入れた密勅、この日が10月14日。

でも、くしくも翌日朝廷が大政奉還を受理したもんだから、
倒幕しようにも、その幕府がもう、ない。

ここら辺、正に時勢が沸騰、燃えてきますな。
で、1ヵ月後は坂本龍馬の命日だもんな~
しかも自身の誕生日で。

2008年10月13日月曜日

子孫一杯

最近子孫一杯、出逢いを感じます。


まず、この人、

沖田総司の子孫の家にお邪魔しました。

もっとも、子孫と言っても彼には子供はいないので、
姉のみつ方と林太郎氏からの家系とは思いますが。
でも、出逢っちゃいました。




次に、この人、

土方歳三先生の子孫の情報をキャッチ。
そのうち逢いにゆきます。





最後にこの人、

維新の先駆け、徳川斉昭公。
・・・の子孫に見事出逢った人から御連絡をいただきました。


その他、華神屋では子孫情報をお待ちしております。

粋華志義。

2008年10月4日土曜日

足利尊氏



尊皇攘夷志士の仕業か!?

http://mainichi.jp/select/wadai/news/

2008年9月27日土曜日

高杉晋作

「おもしろき こともなき世を おもしろく」


奇想天外、神出鬼没、国士無双な男、高杉晋作の時世の句でもあるこの有名な言葉。晋作はここまで書いて力尽き、筆を落とすのですが、枕元にいた野村望東尼という人が、上の句で終わらせてはならない、と即興で「すみなすものは 心なりけり」と付け出し、晋作の頭の上にかかげます。晋作はそれを見て、「・・・おもしろいのう」と言って永い眠りにつくわけですが、この下の句が普通にキレイにまとまりすぎて晋作らしくない、という声も高いわけです。
 
さて、この高杉晋作。どうゆう人かと言うと、まず奇兵隊を作ったことで知られます。確かにこの奇兵隊は700年の歴史を覆す当時では斬新なシステムで、やがて日本陸軍の元になり、紀元前660年から始まる日本史に深くその名を刻みます。しかし、それだけではない。正に神がこの時代の混乱に同情し、天から落としたが如くの存在であります。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」とは、初代内閣総理大臣、伊藤博文曰く。
  
晋作ははじめ、単純な攘夷思想でありました。これは、当時の日本人の一般的な思想であります。攘夷とは、「夷狄(外国人)を攘ち払え」という、現代では不気味な考えでもありますが、300年鎖国を行ってきた日本人としてはやはり、普通な考えでありました。それも、晋作が上海に行ってから変わることになります。もっと言うと、これにより、日本が夜明けに向け大きく変わっていきます。
 
ところで日本という国は言うまでもなく島国であり、その民族意識は当然強い。こんな日本人が海外の文化の違いを目の当たりにすれば、通常答えは二つである。その新しい文化に興味を持つか、それとも忌み嫌うか。当時の海外を知らない一般的な考えは先にも申した通り後者になりますが、面白いことにこの時期、海外に渡った人間(ほとんど幕府)はことごとく開国派になっていきます。

では晋作はどうであったか。彼も上海に行っており、その時期は実にアヘン戦争の直後。そこには白人の英国人に、奴隷の如く扱われている自分と同じアジア人、シナ人の姿でありました。彼はこう思ったと言われます。

西洋人の技術が、まず凄い。
日本刀では西洋の産業革命にはかなわない。
↓↓↓
シナ人(中国人)は何故、英国人にやられっぱなしになっているのか。
↓↓↓
日本もこのままでは、上海の二の舞になってしまう。
↓↓↓
日本を植民地から救うには、今の日本のシステム(幕府)ではダメだ。
       ↓↓↓
一度、日本のシステム(幕府)を滅茶苦茶にしてしまおう。
       ↓↓↓
ど~せやるからには、
異国と戦争を起こして一度、日本を焼け野原にしてしまおう。
       ↓↓↓
亜米利加の独立戦争の如く、強国となるためには一度焼け野原となり、
どん底まで落ちたからこそ生まれる結束力、そのエネルギーこそ、
列強に立ち向かえる力だ。
       ↓↓↓
日本に帰ったら、幕府が困るような問題をいっぱいやってやる。


簡単に言うとこんな流れですな。晋作と同じく上海に行った賢人達は西洋のその技術に魅せられ、開国派となるわけですが、晋作に関しては西洋の技術を心から認めながらもあくまでも攘夷、こういったわけです。

日本に帰った晋作は、まず品川の御殿山に当時完成されつつあった英国公使館に火をつけ焼き討ちします。

次に、将軍暗殺計画、でもこれは失敗に終わります。そして次に、師匠である吉田松陰の、粗末に生き埋めにされた死体を掘り起こし、現在の東京・世田谷にある、後に松陰神社となる場所に改葬します。これも簡単に聞こえますが、吉田松陰とは、当時の国禁を犯した国レベルの大罪人。それを白昼堂堂と、それも、世田谷に行く途中の御成橋を渡ってしまいます。御成橋とは、歴代の将軍が専用で通る橋。勿論、将軍以外は通れない橋ではありますが、晋作は警備のものに、大喝して渡ってしまいます。

これらだけでも、死罪同然ですが幕府は当時の時代背景から弱腰。晋作は国元から呼び出される程度。そして、その江戸から長州への帰途でもやらかします。場所は天下の鹸・箱根の関所。

当時幕府はここをもって関東の守りとし、西から来る敵を想定し、堅固たる関所を設けたわけですが。。。
「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法をかまえて人の往来を制する無法があってよいか」
と、ついに関所破りをします。江戸三百年のあいだ白昼公然と関所をやぶったのは、この男だけであります。

続いて京都では。ちょうど晋作が京都に到着した時、将軍が天皇の行列をお供する時でありました。ここで晋作が起こした行動は、、、司馬遼太郎の文章を拝借します。

―――幕府の作法で、将軍の顔というのは大名でも見ることができない。江戸城での拝謁のときは上段の御簾のなかに坐し、御簾があがっても諸大名は平伏したままで顔をあげてはならないことになっている。たとえ上目でも将軍を見ることは非常な非礼とされているため、江戸の市民でも将軍の顔をおがむことはできない。
 が、この異例の行幸の異例さの第一は、将軍が馬上で全身を衆目の前に曝してしていることであった。
(こんな若者だったのか)
 と、晋作は近づいてくる徳川家茂の騎馬姿をながめて意外な思いがした。存外、可愛げではないか。
 ひとびとはみな土下座し平伏している。が、晋作だけは顔をあげていた。
「いよう。―――」
 と、この男は、花道の役者に大向うから声をかけるように叫んだ。
「―――征夷大将軍」
 といったとき、さすがに連れの山県狂介らも顔色をうしなった。家康以来、天下のぬしに対してこれほどの無礼の挙動をとった男もない。そういう事件も、徳川三百年間、一件もなかった。もしあったとすれば、ただの刑では済まず、鋸挽きの刑にでも処せられたであろう。
 ところが幕府にこまったことに、これは将軍が主役の行列ではなく、将軍以外の権威である天子の行幸であった。天子に対する無礼ならば将軍以下の供奉の者が家来に命じて取りおさえさせるはずであったが、将軍すら天子の供である以上、彼自身に対する無礼は、それを咎める機能がこの行列にはない。将軍のそばには五千石、三千石といった高禄の旗本が徒歩でつき従っており、また番頭以下の親衛隊士もいる。しかし勝手にとびだして天子の行幸をみだすわけにはいかなかった。晋作は、戦略眼に富んだ男だけに、そのことはよく知っていた。
 このとき、将軍の従士たちはよほどくやしかったらしく、このあと江戸までこのことを手紙で書き送った者が多い。
以上、“世に棲む日日”より抜粋。

ところで、晋作の頭はザンギリ頭で世間には知られています。当時、武士でこの頭はおそらく全国三百諸侯を探しても晋作だけではありますまいか。一度、出家しているからです。名を東行と改めて(ちなみに晋作の息子の名前は東一)。当時坊さんになるということは人間をやめると同様。出家して10年は浮世から身を引こうとした晋作でありますが、数ヶ月で長州の殿様から呼び出されます。

それもそのはず、長州という独立国の非常事態。幕府から攻められ、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻にもなる四カ国艦隊に攻められる時。日本からも朝敵とされ、列強からも攻められ、正に地球から孤立した状態でありました。

晋作は呼び出され、こう殿様に進言します。
「もはや非常の事態。非常のことをやらねばなりませぬ」

こうして生まれたのが奇兵隊。

武士が始まって以来700年、濃密な階級制度が出来てからも250年、晋作はそのシステムを覆します。奇兵隊の“奇”とは、武士の隊からなる“正”規兵に対する意、つまり階級・出身に捉われず、“志”を持つものだけを集めるのですな。

この後、晋作は四カ国艦隊との終戦の交渉に行きます。色々お話ししたいのですが、この時のポイントは、英仏米蘭の連合軍が彦島を拝借したい、と言うのをきっぱりと断ったことですかな。これはテストに出ますぞ。晋作は上海を見てますからね。これだけは絶対に拒否しなければ、と考えます。そこで彼は古事記・日本書記の講義を長々と始め、高天原より始まり、天照皇大神がどうのこうのと永遠に続け、ついに相手に諦めさせてしまうのです。

さて、その後長州は幕府から第二次長州征伐を受け、10万くらいの幕府軍が長州に攻めて来るわけですが、なんと、これに立ち向かう。はじめはほんと一人でありました。自分で作った奇兵隊も動かず、それでも、「自分の国(長州)を憂うものは功山寺に集まれ」と、声をかけ、その期限を12月15日とします(→新暦1864年1月12日)。

誰が考えても絶対に勝てない戦であります。だって、敵10万ですからね。よく戦国の戦で敵の何分の一しかないのに勝ったとか何とかありますが、10万倍ですよ。100人集まったところで敵は千倍。さすが晋作、生涯困ったことがない。

そして運命の12月15日。ちなみに「その時歴史が動いた」ではこの日に焦点を合わせて放送されてましたな。

この日、一人の若者が動きます。

後に初代内閣総理大臣となる伊藤俊介(博文)。この男が30人を引き連れ一人が30人となり、また諸国から脱藩志士が集まりついには80人となりました、この日。でも80人。

晋作はこの時言うのです。
「今から長州男児の肝っ玉をお見せしよう」

これが12月15日の功山寺挙兵。

この後、晋作の存在が奇兵隊士200人を動かし、それが農民に広がり、その規模は3000人にも膨れ上がります。まぁ色々あるわけですが結局、このクーデターは成功します。成功したからには、当然晋作は第一人者なのでその新政権のトップとなるのが普通っぽいですが、「艱難を共にすべく、富貴を共にすべからず」としてそのポストを退きます。

そしてその後の幕長戦争でも、扇子一本で幕府艦隊に奇襲をして追っ払い、小倉城も彼の作戦で落とし、勝ってしまう。そして、その役目が終わったかのように病に倒れ、この文の冒頭に結びつくわけです。

晋作が何をしたか、とてもこのくらいの文章では伝えられないですが、彼の魅力を感じる一句がこれ、
「三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」

晋作は晩年、よく言っていたことがあるといいます。
「自分は生涯、困ったということがない」

そして高杉晋作という男、または彼の人生を語るにはこの言葉でありましょう。
「おもしろき こともなき世を おもしろく・・・」 



最後までお読みいただきありがとうございました m(_ _)m
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2008年9月25日木曜日

問羅馬字

 ローマ字とは、よく言うものだ。

素朴な疑問が今日この頃、再発しました。
前から思っていたのですが、
「高校」をローマ字にすると、

koko

???
ここ???
本人は「こーこー」のつもりでしょうが、
やっぱりピンと来ないんです。

何故

koukou

としないのか。
いやですね、今日通った交差点名がコレだったんスよ。


続いて、浩二郎君がいたとします。
やっぱり、

kojiro

で来るんでしょうか。
こじろでいいんでしょうか。
何故、

koujirou

にしないんでしょう。

東京は、tokyo(ときょ)?
庄司は、shoji(しょじ)?
龍馬は、ryoma(りょま)?

誰かこの攻略法を教えてください~ 

2008年9月24日水曜日

都大東京

今日、久しぶりに東京に行きました。
運転していくなんていったら、もう何年ぶりになるだろう。

建物、高ぇ~

夜景、綺麗ぃ~

駐車場、高ぇ~

400円もするんスか!ちょっとスキをみしただけで。
25分で400円。
横浜でも20分100円なのに。

さすがは花の都・大東京。


だけど俺は この街を愛し、そしてこの街を憎んだ♪
ふふ。わかります?

東京はやっぱりすごい。
夜景なんて特に綺麗でね、色んなドラマがあるんだろうなぁ~。

って。


・・・やはり、東京か!?

2008年9月22日月曜日

極東日本

 先月末、スペインに住んでいる友人が、一時帰国で日本に帰ってきた。同日、イスラエルのユダヤ人の友人が日本に来て、合同で会いました。今月の初旬には、タイで粋ている後輩が一時帰国したそうだが、これはすれ違いで会えなかった。今宵は、これまたイスラエルより、友人が一時帰国で帰ってきたので、今会ってきました。今月末には、もう一人やってくる。来月は、日本に帰ってきた友人が、またタイへ行く。

今年は明治維新140周年、来年で横浜開港150周年。あれからもう、150年。日本人は国際人となれているのか。

~続く~

2008年9月20日土曜日

長藩奇兵

奇兵隊

「長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。「奇兵」とは藩士・武士のみからなる部隊(撰鋒隊)に対して、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊の意味。「正規兵」の反対語である」
Wikipediaより抜粋


700年の常識を覆した奇兵隊。日本陸軍の大元ともなったであります。いつかのブログでもログりましたが、陸軍の「~であります」は山口弁、つまり奇兵隊の言葉がそのまま移ったのであります。で、これを作ったのが高杉晋作というのは言うまでもありませんが、自分の死期が近づいた時に、墓に“奇兵隊 開闢総督”の名を希望したあたり、やはり奇兵隊に対する想いが伝わります。

さて、全国晋作会連合会に入会しましたが、届きましたよ、


奇兵隊袖印。

聞いておそろし 見ていやらしい 添うてうれしい 奇兵隊

2008年9月18日木曜日

竜馬七人

 “竜馬がゆく”、7人でした。



華神屋では、竜馬がゆくを応援しています。 ^^

2008年9月17日水曜日

竜馬六人

最近、それがしの周りで「竜馬がゆく」を読み始めたのが、6人にもなった・・・。

2008年9月15日月曜日

近藤土方

歳三は、激論した。

ついに、泣いた。よせ、よすんだ、まだ奥州がある、と歳三は何度か怒号した。最後に、あんたは昇り坂のときはいい、くだり坂になると人が変わったように物事を投げてしまうとまで攻撃した。

「そうだ」

と近藤はうなずいた。

「賊名を残したくない。私は、お前とちがって大義名分を知っている」

「官といい賊というも、一時のことだ。しかし男として降伏は恥ずべきではないか。甲州百万石を押えにゆく、といっていたあのときのあんたにもどってくれ」

「時が、過ぎたよ。おれたちの頭上を通りこして行ってしまった。近藤勇も、土方歳三も、ふるい時代の孤児となった」

「ちがう」

歳三は、目をすえた。時勢などは問題ではない。勝敗も論外である。男は、自分が考えている美しさのために殉ずべきだ、と歳三はいった。

が、近藤は静かにいった。おれは大義名分に服することに美しさを感ずるのさ。歳、ながい間の同志だったが、ぎりぎりのところで意見が割れたようだ、何に美しさを感ずるか、ということで。

「だから歳」

近藤はいった。

「おめえは、おめえの道をゆけ。おれはおれの道をゆく。ここで別れよう」

「別れねぇ。連れてゆく」

歳三は、近藤の利き腕をつかんだ。松の下枝のようにたくましかった。
ふってもぎはなつかと思ったが近藤は意外にも歳三のその手を撫でた。


「世話になった」

「おいっ」

「歳、自由にさせてくれ。お前は新撰組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解きはなって、自由にさせてくれ」

歳三は、近藤の顔をみた。
茫然とした。

「行くよ」

近藤は、庭へおりた。おりるとその足で酒倉へゆき、兵に解散を命じ、さらに京都以来の隊士数人をあつめて、

「みな、自由にするがいい。私も、自由にする。みな、世話になった」

近藤は、ふたたび門を出た。
歳三は追わなかった。

(おれは、やる)


以上、“燃えよ剣”より抜粋。

2008年9月9日火曜日

平成寺田屋騒動

・・・というニュースが何日前かの朝のニュースでやってまして。誰が大麻をやったか、とか、首相の辞任、とか、人々が知りたがり症候群のこの世の中、これはやはり知りたがりやです。ご存知の方も多いとは思いますが、右の欄の写真もその寺田屋で撮ってるし。龍馬が襲われた部屋で撮ってるし。このブログにもおおいに関係ある騒動であります。

あの龍馬が打った弾痕が

違うとなると月とスッポン、絵に描いた餅、言語道断で、今後の人生が大きく変わります。

真実を知りたいところです。



龍馬ファンに衝撃 事件の舞台「寺田屋」に建て替え疑惑

幕末の英雄・坂本龍馬が襲撃された「寺田屋事件」の舞台、旅館「寺田屋」が建て替えられたのではないかという疑惑が浮上している。龍馬が「応戦」した痕だと言われる弾痕も残っていて、当時のままだとされてきただけに、いったい何があったのか。京都市も事実関係の調査に乗り出した。

「記事にあるような『偽装』ではありません」

「週刊ポスト」は2008年9月12日号で、「平成の『寺田屋騒動』」と題し、「寺田屋」が「レプリカ」ではないかという記事を載せている。京都・伏見にある寺田屋は、1866年、坂本龍馬が滞在中に幕吏に暗殺されかけた「寺田屋事件」で有名だ。館内には、襲撃を受けた龍馬が応戦、ピストルを発射した痕だろうと言われる弾痕や、刀痕が残っている。また、入浴中だった寺田屋の女将お登勢の養女・お龍(のちの龍馬の妻)が、龍馬に知らせるため、裸のまま駆け上がったと言われる階段もそのままだ。館内では、「この寺田屋は維新の舞台となった当時の船宿そのままでございます。これが現存することも珍しいことでございますが、この寺田屋の建物の中で歴史が作られたのでございます・・・」という音声解説が流れている。

ところが同誌は龍馬に関する書籍を元に、寺田屋は1868年の戊辰の兵火(戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い)で焼失していて、もとは現在の寺田屋東側にある庭に建っていたと推測する。さらに庭には「寺田屋遺址」と書かれた碑があり、地元の人は「東側の庭になっている別の場所に建っていたと祖父は話していました」と明かしている。にもかかわらず、「当時のまま」を謳うのは「食品偽装ならぬ『観光偽装』」ではないかとしている。

J-CASTニュースが寺田屋の経営者に取材すると、

「寺田屋は何度も人手に渡っていて、確かなことはわかりません。私どもが受け継いだのは1976年のことですが、その時から当時の建物だと言い伝えられていました」

とした上で、戊辰戦争で焼失したという説については、

「一部が被災して、修繕したようですが、どの範囲に及んだかはわかりません。しかし弾痕や刀痕、階段は当時のものだと認識しています。記事にあるような『偽装』ではありません」
と話している。

京都市は「聞いたことはありました」
記事を受けて、京都市も調査に乗り出した。依頼を受けた京都市歴史資料館は当時の資料の原文や建物の東隣の庭にある碑を検証していく。資料館担当者は、

「なるべく早く明らかにしたいと思いますが、資料の原文にあたるので時間がかかりそうです」
としている。

また、市のホームページでは、寺田屋に関する項目が2008年9月2日から削除されている。京都市産業観光局は事実を確認するまで載せないという。

もし建て替えられていた場合には、そのことを明記して載せる。さらに、寺田屋に対しては、

「今のままでは観光客の誤解を招くので、建て替えたものであることを明示してほしい」

と指導していく。

ところで、この疑惑を市は知らずにいたのだろうか。

「話を聞いたことはありました。しかし民間の建物だったことと、ご存知のように京都には神社、寺、文化財と星の数ほどの観光資源があり、市がすべて調査することはできません。各施設が責任をもって管理していただかないと」

2008年9月8日月曜日

睡眠時間

本日も皆様方には御國の為、お勤め御苦労様です。

いや~、部屋でネットができるというのはなんて便利なものか。とても実感している今日この頃。何でもできるわけじゃないですけど、かなり色んなことが出来ますからな。近代はすごい!ってか、日本を近代化にした維新の人達すごい!

ところで、最近睡眠時間を減らそうとも考えとるんですが、何か良い手はない㋜かねぇ~?レム睡眠とノンレム睡眠のネタ以外で、何か別に攻略法があったら教えてください。

これって、微妙なんですよね。例えば睡眠3時間で貫くことも出来るが、それだと日中の集中力に影響が出てくる。これだとやってる意味がないんで、まぁ、睡眠時間と効率よく付き合ってゆく方法、合理的な方法があれば教えてくらさい。

m(_ _)m

2008年9月7日日曜日

此処に復活。

 大変長らくお待たせいたしました。無事部屋にネットが、此処に復活しましたので、此処に復活です。

さて、このブログの名前でもある“粋華志義”が、Tシャツになりました!



むふふ。

こちらは、私が所属している鎌倉ローターアクトという活動の一環になります。

ところで、このブログもそうですが、最近、この鎌倉ローターアクトブログが熱い!!!是非皆様方にはお越しくだされたく存じ上げ候。

http://kamakurarac.blogspot.com/







タウンニュースにも出ちゃったりして☆




以上、今後とも御贔屓のほど。

2008年8月11日月曜日

途中報告

まだね、

まだ部屋にネットは届かないですよ。

この浮世には時勢というものがありますからな。

我々は、その時勢を見定めなければ、なりませぬ。

2008年8月4日月曜日

嘆願書

おとといより11番目となる新しい部屋に引越しをしまして、

ネットが通じるまで3週間くらいかかるらしいです。。。

しばらく蟄居しておりまする。

2008年8月1日金曜日

最近言訳

最近、追っつかない。。。

2008年7月29日火曜日

武市玄瑞

瑞山先生と玄瑞先生が話した場所、



角屋。

何を話していたのか。

一藩勤皇の件だろ~なぁ~。



僕なんか、顔のっぺらぼう。。。

2008年7月28日月曜日

土佐見聞

旅するっても、今回は僕じゃないんですがね。。。

最近、素敵な出逢いを感じてます。

いやですね、
龍馬を崇拝してる!とか、
歳三に惚れてる!とか、
晋作は国士無双!とか、
幕末を語ったら一晩じゃ終わらない!眠い!とか、
この稼業やってると、色んな人に逢いますが、
今回は貴重です。

京都に住んでる。
・・・というのもいい響きですが、
なんと、エゲレス人。
大英帝国ですよ、旦那!
当時も一番といっていいほど、密接に絡んでましたからな、大英帝国は。
この方が、幕末時事に通じている。。。

これは おもしろく なりそうだ!!!

でね、その人が昨日、今日と鬼の住む国、土佐に行ってきたらしいス。


桂浜。
すげぇ~、ドラマで見る海と 一緒だ。



続いて、

岩崎弥太郎の生家。
マークは、土佐の桔梗の門から三菱のロゴに簡素化される途中のものだろうか・・・

早く行かんと、土佐に。

2008年7月25日金曜日

新聞見聞

真夜中の地震が、



もう朝刊に載ってる。

と、今朝の電車で思いました。

そういえば、あれは24時間体制ですか?

あの地震があるまでは、別の記事があったわけで、

それをあの地震が起きた瞬間、別の場所に編集したわけですか?

しかもそれが三面記事ってことは、

三面落ちした記事は次のところへ移って・・・で それがまた移って・・・

ってやってったら、文字数とか変なんなっちゃって・・・、

でも早くしないと間に合わない。

大量に印刷して、4時くらいには配り始めてるんですよね?

新聞屋は偉いな、と思いました。

一方、アフリカでは、壁新聞(というより壁書き)でした。

2008年7月24日木曜日

継之助言

 ―――考えてもみよ。


と、継之助はおもう。

いまこの大変動期にあたり、
人間なる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、
打算に走り、
あらそって新時代の側につき、
旧恩をわすれ、
男子の道をわすれ、
言うべきことを言わなかったならば、
後世はどうなるのであろう。

―――それが日本男子か。

と、おもうにちがいない。

以上、“峠”より抜粋

2008年7月23日水曜日

竜馬名言

今日の名言。





「しくじったら またやり直せば ええんじゃ!」

2008年7月22日火曜日

来龍馬伝

この1週間、また龍馬先生の話題が身の周りに粋に多い。

その①
 →“さかもとりょうま”と一字違いの人と逢った。

その②
 →“竜馬がゆく”を貸してほしい、と言われた。

その③
 →2010年の大河ドラマは、龍馬伝だ。と話が出た。




海援隊本営、酢屋 前にて。

2008年7月21日月曜日

髭且母韻

この歌、



遊びじゃない。

2008年7月17日木曜日

熊本清正

今日もありましたよ、出逢い

いやぁ~

“人の世の 幸 不幸は 人と人とが 出逢うことから はじまる”

もんですな。

今日の出逢い人は、熊本人

熊本と言えば、かつてこの地で回天の歴史が起こりました。



田原坂の激戦。


さすがは熊本っ子。
田原坂をご存知でいらっしゃる。


そうだ 田原坂、行こう。


大きな地図で見る

2008年7月15日火曜日

靖国御霊

京都では祇園祭りが華やいでいる一方、

東京では7月13日、



みたままつり。

行って参りました。

日本男児4人がこの日、靖国に集まり、
日本国について語ったのでした。

2008年7月11日金曜日

折鶴降下

タイでのお話。

タイ南部の一部の地域では、意外にも紛争が起こっています。

そんなある日、王様が、

「平和を願ってみんなで鶴を折ろう」

ということになったらしい。

その ある日、会社行ったら、みんな鶴折ってる。



何故かと聞いたら、上記の通りで、

なんと、その鶴を空から、その地域に降らす と言う。

みんな折ってますからね、しかも一人ひとつ、とかじゃなくて、

何個も折ってる。僕もひとつ折らされた。

で、

そうして集まった折鶴はタイ全国でたしか100万羽とか1000万羽とか、

忘れたけどとにかく、ものすごいことになってました。

でも、ちょっと待ってください。



これで、1羽。 ↑↑↑


これで、1万羽。 ↓↓↓



もう、鶴だかなんだか わからない。

この1万羽が、さらに100セットあって100万羽、

ゴミいっぱい。

さすがに、これ全部は降らさなかっただろうけど。。。

2008年7月10日木曜日

参禰其四


なになに?




お、開いた。




ひぇ〜。




びえ〜ん。

2008年7月9日水曜日

林檎電話

興味あります、



iphone

いつの間にか発売されるのですね。

なれど、それがしはDoCoMoに忠義を尽すまで。

2008年7月8日火曜日

七月八日

七月八日。
この日、日本はたしかに動いた。

まず、

黒船来航
この日から日本は、幕末風雲の中へと動き出す。



で もひとつ、上の1853年から11年後同日、
池田屋の変
池田屋事件により、明治維新が一年遅れたとも、
尊攘派を刺激してしまい維新を早めてしまったともいわれる。
作家の司馬遼太郎は、この事件がなかったら薩長主力の明治維新は
永遠にこなかったであろう
と解釈している。

で、行ってきました、池田屋跡。


間違いない、
事件は会議室で起こってるんじゃない、
現場で起こってんだ。

2008年7月7日月曜日

七夕見聞

見るより聞くより踊るもの~♪



ってことでこの週末に七夕祭りに、久しぶりに行って参りました。
7、8年ぶりに行く地元の祭り、なかなか懐かしいものがありました。

ところで、人と待ち合わせするのに喫煙所にいたんです。
するとこんな会話が。

母: 「なんか飲みたい?飲みもん買いに行こっか!」

でかい。とにかく声がでかい。
声のボリュームが大きくて、ウチにあるTVのボリュームで言うと、
周りの人が音量10だとしたら、明らかに17くらいはある。

小学生くらいの子供3人くらい連れたこのお母さんはですね、
声も大きいが体も大きい。
まぁ、解りやすく言うとお相撲さんみたいな体系をしている。

で、とにかくいなくなったんですよ。
と思ったら、またすぐ帰ってきた。

と思ったら、
その母はですね、筆頭にその買ってきた飲みものをガブ飲み。
で、会話がはじまる。

母: 「そっち行こ~っと」

母が座る場所を移動する。
子供より、母の方がヤンチャである。

母: 「何故なら灰皿が近いから!」

それにしても引き続き音量間違えてる。
休む人も含め、30人くらいはいるその喫煙所に堂堂とその声が通る。

子: 「たばこ吸うと早死にしちゃうよ」

母: 「大丈夫。あと10年生きてないから」

何が大丈夫なのか。
音量に加えて大丈夫という言葉の使い方も間違っている。

母: 「こんな世の中生きててもいいことないんだから、
   早死に勝ちだよ」


子: 「長生きしてればいいこともあるよ」

母: 「ないないないないない!ムリムリムリムリムリ!」

すげぇ、ナイナイガールズ 初めて見た。ほんとにいんだ。

母: 「税金高いし、ガソリン高くなるし、給料下がるし、
    どんどん搾り取られて、何もできなくなって死んでいくんだよ。
    それが人生だよ」


何も誇張してません、マジでこんなこと↑言ってた。

子: 「・・・(苦笑)」

母の言葉テロは続く。

母: 「早く死のう!軽く死のう!」



これも、平和が生んだ産物なのでしょう。
しかし、無念・・・

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