2008年9月27日土曜日

高杉晋作

「おもしろき こともなき世を おもしろく」


奇想天外、神出鬼没、国士無双な男、高杉晋作の時世の句でもあるこの有名な言葉。晋作はここまで書いて力尽き、筆を落とすのですが、枕元にいた野村望東尼という人が、上の句で終わらせてはならない、と即興で「すみなすものは 心なりけり」と付け出し、晋作の頭の上にかかげます。晋作はそれを見て、「・・・おもしろいのう」と言って永い眠りにつくわけですが、この下の句が普通にキレイにまとまりすぎて晋作らしくない、という声も高いわけです。
 
さて、この高杉晋作。どうゆう人かと言うと、まず奇兵隊を作ったことで知られます。確かにこの奇兵隊は700年の歴史を覆す当時では斬新なシステムで、やがて日本陸軍の元になり、紀元前660年から始まる日本史に深くその名を刻みます。しかし、それだけではない。正に神がこの時代の混乱に同情し、天から落としたが如くの存在であります。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」とは、初代内閣総理大臣、伊藤博文曰く。
  
晋作ははじめ、単純な攘夷思想でありました。これは、当時の日本人の一般的な思想であります。攘夷とは、「夷狄(外国人)を攘ち払え」という、現代では不気味な考えでもありますが、300年鎖国を行ってきた日本人としてはやはり、普通な考えでありました。それも、晋作が上海に行ってから変わることになります。もっと言うと、これにより、日本が夜明けに向け大きく変わっていきます。
 
ところで日本という国は言うまでもなく島国であり、その民族意識は当然強い。こんな日本人が海外の文化の違いを目の当たりにすれば、通常答えは二つである。その新しい文化に興味を持つか、それとも忌み嫌うか。当時の海外を知らない一般的な考えは先にも申した通り後者になりますが、面白いことにこの時期、海外に渡った人間(ほとんど幕府)はことごとく開国派になっていきます。

では晋作はどうであったか。彼も上海に行っており、その時期は実にアヘン戦争の直後。そこには白人の英国人に、奴隷の如く扱われている自分と同じアジア人、シナ人の姿でありました。彼はこう思ったと言われます。

西洋人の技術が、まず凄い。
日本刀では西洋の産業革命にはかなわない。
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シナ人(中国人)は何故、英国人にやられっぱなしになっているのか。
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日本もこのままでは、上海の二の舞になってしまう。
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日本を植民地から救うには、今の日本のシステム(幕府)ではダメだ。
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一度、日本のシステム(幕府)を滅茶苦茶にしてしまおう。
       ↓↓↓
ど~せやるからには、
異国と戦争を起こして一度、日本を焼け野原にしてしまおう。
       ↓↓↓
亜米利加の独立戦争の如く、強国となるためには一度焼け野原となり、
どん底まで落ちたからこそ生まれる結束力、そのエネルギーこそ、
列強に立ち向かえる力だ。
       ↓↓↓
日本に帰ったら、幕府が困るような問題をいっぱいやってやる。


簡単に言うとこんな流れですな。晋作と同じく上海に行った賢人達は西洋のその技術に魅せられ、開国派となるわけですが、晋作に関しては西洋の技術を心から認めながらもあくまでも攘夷、こういったわけです。

日本に帰った晋作は、まず品川の御殿山に当時完成されつつあった英国公使館に火をつけ焼き討ちします。

次に、将軍暗殺計画、でもこれは失敗に終わります。そして次に、師匠である吉田松陰の、粗末に生き埋めにされた死体を掘り起こし、現在の東京・世田谷にある、後に松陰神社となる場所に改葬します。これも簡単に聞こえますが、吉田松陰とは、当時の国禁を犯した国レベルの大罪人。それを白昼堂堂と、それも、世田谷に行く途中の御成橋を渡ってしまいます。御成橋とは、歴代の将軍が専用で通る橋。勿論、将軍以外は通れない橋ではありますが、晋作は警備のものに、大喝して渡ってしまいます。

これらだけでも、死罪同然ですが幕府は当時の時代背景から弱腰。晋作は国元から呼び出される程度。そして、その江戸から長州への帰途でもやらかします。場所は天下の鹸・箱根の関所。

当時幕府はここをもって関東の守りとし、西から来る敵を想定し、堅固たる関所を設けたわけですが。。。
「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法をかまえて人の往来を制する無法があってよいか」
と、ついに関所破りをします。江戸三百年のあいだ白昼公然と関所をやぶったのは、この男だけであります。

続いて京都では。ちょうど晋作が京都に到着した時、将軍が天皇の行列をお供する時でありました。ここで晋作が起こした行動は、、、司馬遼太郎の文章を拝借します。

―――幕府の作法で、将軍の顔というのは大名でも見ることができない。江戸城での拝謁のときは上段の御簾のなかに坐し、御簾があがっても諸大名は平伏したままで顔をあげてはならないことになっている。たとえ上目でも将軍を見ることは非常な非礼とされているため、江戸の市民でも将軍の顔をおがむことはできない。
 が、この異例の行幸の異例さの第一は、将軍が馬上で全身を衆目の前に曝してしていることであった。
(こんな若者だったのか)
 と、晋作は近づいてくる徳川家茂の騎馬姿をながめて意外な思いがした。存外、可愛げではないか。
 ひとびとはみな土下座し平伏している。が、晋作だけは顔をあげていた。
「いよう。―――」
 と、この男は、花道の役者に大向うから声をかけるように叫んだ。
「―――征夷大将軍」
 といったとき、さすがに連れの山県狂介らも顔色をうしなった。家康以来、天下のぬしに対してこれほどの無礼の挙動をとった男もない。そういう事件も、徳川三百年間、一件もなかった。もしあったとすれば、ただの刑では済まず、鋸挽きの刑にでも処せられたであろう。
 ところが幕府にこまったことに、これは将軍が主役の行列ではなく、将軍以外の権威である天子の行幸であった。天子に対する無礼ならば将軍以下の供奉の者が家来に命じて取りおさえさせるはずであったが、将軍すら天子の供である以上、彼自身に対する無礼は、それを咎める機能がこの行列にはない。将軍のそばには五千石、三千石といった高禄の旗本が徒歩でつき従っており、また番頭以下の親衛隊士もいる。しかし勝手にとびだして天子の行幸をみだすわけにはいかなかった。晋作は、戦略眼に富んだ男だけに、そのことはよく知っていた。
 このとき、将軍の従士たちはよほどくやしかったらしく、このあと江戸までこのことを手紙で書き送った者が多い。
以上、“世に棲む日日”より抜粋。

ところで、晋作の頭はザンギリ頭で世間には知られています。当時、武士でこの頭はおそらく全国三百諸侯を探しても晋作だけではありますまいか。一度、出家しているからです。名を東行と改めて(ちなみに晋作の息子の名前は東一)。当時坊さんになるということは人間をやめると同様。出家して10年は浮世から身を引こうとした晋作でありますが、数ヶ月で長州の殿様から呼び出されます。

それもそのはず、長州という独立国の非常事態。幕府から攻められ、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻にもなる四カ国艦隊に攻められる時。日本からも朝敵とされ、列強からも攻められ、正に地球から孤立した状態でありました。

晋作は呼び出され、こう殿様に進言します。
「もはや非常の事態。非常のことをやらねばなりませぬ」

こうして生まれたのが奇兵隊。

武士が始まって以来700年、濃密な階級制度が出来てからも250年、晋作はそのシステムを覆します。奇兵隊の“奇”とは、武士の隊からなる“正”規兵に対する意、つまり階級・出身に捉われず、“志”を持つものだけを集めるのですな。

この後、晋作は四カ国艦隊との終戦の交渉に行きます。色々お話ししたいのですが、この時のポイントは、英仏米蘭の連合軍が彦島を拝借したい、と言うのをきっぱりと断ったことですかな。これはテストに出ますぞ。晋作は上海を見てますからね。これだけは絶対に拒否しなければ、と考えます。そこで彼は古事記・日本書記の講義を長々と始め、高天原より始まり、天照皇大神がどうのこうのと永遠に続け、ついに相手に諦めさせてしまうのです。

さて、その後長州は幕府から第二次長州征伐を受け、10万くらいの幕府軍が長州に攻めて来るわけですが、なんと、これに立ち向かう。はじめはほんと一人でありました。自分で作った奇兵隊も動かず、それでも、「自分の国(長州)を憂うものは功山寺に集まれ」と、声をかけ、その期限を12月15日とします(→新暦1864年1月12日)。

誰が考えても絶対に勝てない戦であります。だって、敵10万ですからね。よく戦国の戦で敵の何分の一しかないのに勝ったとか何とかありますが、10万倍ですよ。100人集まったところで敵は千倍。さすが晋作、生涯困ったことがない。

そして運命の12月15日。ちなみに「その時歴史が動いた」ではこの日に焦点を合わせて放送されてましたな。

この日、一人の若者が動きます。

後に初代内閣総理大臣となる伊藤俊介(博文)。この男が30人を引き連れ一人が30人となり、また諸国から脱藩志士が集まりついには80人となりました、この日。でも80人。

晋作はこの時言うのです。
「今から長州男児の肝っ玉をお見せしよう」

これが12月15日の功山寺挙兵。

この後、晋作の存在が奇兵隊士200人を動かし、それが農民に広がり、その規模は3000人にも膨れ上がります。まぁ色々あるわけですが結局、このクーデターは成功します。成功したからには、当然晋作は第一人者なのでその新政権のトップとなるのが普通っぽいですが、「艱難を共にすべく、富貴を共にすべからず」としてそのポストを退きます。

そしてその後の幕長戦争でも、扇子一本で幕府艦隊に奇襲をして追っ払い、小倉城も彼の作戦で落とし、勝ってしまう。そして、その役目が終わったかのように病に倒れ、この文の冒頭に結びつくわけです。

晋作が何をしたか、とてもこのくらいの文章では伝えられないですが、彼の魅力を感じる一句がこれ、
「三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」

晋作は晩年、よく言っていたことがあるといいます。
「自分は生涯、困ったということがない」

そして高杉晋作という男、または彼の人生を語るにはこの言葉でありましょう。
「おもしろき こともなき世を おもしろく・・・」 



最後までお読みいただきありがとうございました m(_ _)m
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2008年9月25日木曜日

問羅馬字

 ローマ字とは、よく言うものだ。

素朴な疑問が今日この頃、再発しました。
前から思っていたのですが、
「高校」をローマ字にすると、

koko

???
ここ???
本人は「こーこー」のつもりでしょうが、
やっぱりピンと来ないんです。

何故

koukou

としないのか。
いやですね、今日通った交差点名がコレだったんスよ。


続いて、浩二郎君がいたとします。
やっぱり、

kojiro

で来るんでしょうか。
こじろでいいんでしょうか。
何故、

koujirou

にしないんでしょう。

東京は、tokyo(ときょ)?
庄司は、shoji(しょじ)?
龍馬は、ryoma(りょま)?

誰かこの攻略法を教えてください~ 

2008年9月24日水曜日

都大東京

今日、久しぶりに東京に行きました。
運転していくなんていったら、もう何年ぶりになるだろう。

建物、高ぇ~

夜景、綺麗ぃ~

駐車場、高ぇ~

400円もするんスか!ちょっとスキをみしただけで。
25分で400円。
横浜でも20分100円なのに。

さすがは花の都・大東京。


だけど俺は この街を愛し、そしてこの街を憎んだ♪
ふふ。わかります?

東京はやっぱりすごい。
夜景なんて特に綺麗でね、色んなドラマがあるんだろうなぁ~。

って。


・・・やはり、東京か!?

2008年9月22日月曜日

極東日本

 先月末、スペインに住んでいる友人が、一時帰国で日本に帰ってきた。同日、イスラエルのユダヤ人の友人が日本に来て、合同で会いました。今月の初旬には、タイで粋ている後輩が一時帰国したそうだが、これはすれ違いで会えなかった。今宵は、これまたイスラエルより、友人が一時帰国で帰ってきたので、今会ってきました。今月末には、もう一人やってくる。来月は、日本に帰ってきた友人が、またタイへ行く。

今年は明治維新140周年、来年で横浜開港150周年。あれからもう、150年。日本人は国際人となれているのか。

~続く~

2008年9月20日土曜日

長藩奇兵

奇兵隊

「長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。「奇兵」とは藩士・武士のみからなる部隊(撰鋒隊)に対して、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊の意味。「正規兵」の反対語である」
Wikipediaより抜粋


700年の常識を覆した奇兵隊。日本陸軍の大元ともなったであります。いつかのブログでもログりましたが、陸軍の「~であります」は山口弁、つまり奇兵隊の言葉がそのまま移ったのであります。で、これを作ったのが高杉晋作というのは言うまでもありませんが、自分の死期が近づいた時に、墓に“奇兵隊 開闢総督”の名を希望したあたり、やはり奇兵隊に対する想いが伝わります。

さて、全国晋作会連合会に入会しましたが、届きましたよ、


奇兵隊袖印。

聞いておそろし 見ていやらしい 添うてうれしい 奇兵隊

2008年9月18日木曜日

竜馬七人

 “竜馬がゆく”、7人でした。



華神屋では、竜馬がゆくを応援しています。 ^^

2008年9月17日水曜日

竜馬六人

最近、それがしの周りで「竜馬がゆく」を読み始めたのが、6人にもなった・・・。

2008年9月15日月曜日

近藤土方

歳三は、激論した。

ついに、泣いた。よせ、よすんだ、まだ奥州がある、と歳三は何度か怒号した。最後に、あんたは昇り坂のときはいい、くだり坂になると人が変わったように物事を投げてしまうとまで攻撃した。

「そうだ」

と近藤はうなずいた。

「賊名を残したくない。私は、お前とちがって大義名分を知っている」

「官といい賊というも、一時のことだ。しかし男として降伏は恥ずべきではないか。甲州百万石を押えにゆく、といっていたあのときのあんたにもどってくれ」

「時が、過ぎたよ。おれたちの頭上を通りこして行ってしまった。近藤勇も、土方歳三も、ふるい時代の孤児となった」

「ちがう」

歳三は、目をすえた。時勢などは問題ではない。勝敗も論外である。男は、自分が考えている美しさのために殉ずべきだ、と歳三はいった。

が、近藤は静かにいった。おれは大義名分に服することに美しさを感ずるのさ。歳、ながい間の同志だったが、ぎりぎりのところで意見が割れたようだ、何に美しさを感ずるか、ということで。

「だから歳」

近藤はいった。

「おめえは、おめえの道をゆけ。おれはおれの道をゆく。ここで別れよう」

「別れねぇ。連れてゆく」

歳三は、近藤の利き腕をつかんだ。松の下枝のようにたくましかった。
ふってもぎはなつかと思ったが近藤は意外にも歳三のその手を撫でた。


「世話になった」

「おいっ」

「歳、自由にさせてくれ。お前は新撰組の組織を作った。その組織の長であるおれをも作った。京にいた近藤勇は、いま思えばあれはおれじゃなさそうな気がする。もう解きはなって、自由にさせてくれ」

歳三は、近藤の顔をみた。
茫然とした。

「行くよ」

近藤は、庭へおりた。おりるとその足で酒倉へゆき、兵に解散を命じ、さらに京都以来の隊士数人をあつめて、

「みな、自由にするがいい。私も、自由にする。みな、世話になった」

近藤は、ふたたび門を出た。
歳三は追わなかった。

(おれは、やる)


以上、“燃えよ剣”より抜粋。

2008年9月9日火曜日

平成寺田屋騒動

・・・というニュースが何日前かの朝のニュースでやってまして。誰が大麻をやったか、とか、首相の辞任、とか、人々が知りたがり症候群のこの世の中、これはやはり知りたがりやです。ご存知の方も多いとは思いますが、右の欄の写真もその寺田屋で撮ってるし。龍馬が襲われた部屋で撮ってるし。このブログにもおおいに関係ある騒動であります。

あの龍馬が打った弾痕が

違うとなると月とスッポン、絵に描いた餅、言語道断で、今後の人生が大きく変わります。

真実を知りたいところです。



龍馬ファンに衝撃 事件の舞台「寺田屋」に建て替え疑惑

幕末の英雄・坂本龍馬が襲撃された「寺田屋事件」の舞台、旅館「寺田屋」が建て替えられたのではないかという疑惑が浮上している。龍馬が「応戦」した痕だと言われる弾痕も残っていて、当時のままだとされてきただけに、いったい何があったのか。京都市も事実関係の調査に乗り出した。

「記事にあるような『偽装』ではありません」

「週刊ポスト」は2008年9月12日号で、「平成の『寺田屋騒動』」と題し、「寺田屋」が「レプリカ」ではないかという記事を載せている。京都・伏見にある寺田屋は、1866年、坂本龍馬が滞在中に幕吏に暗殺されかけた「寺田屋事件」で有名だ。館内には、襲撃を受けた龍馬が応戦、ピストルを発射した痕だろうと言われる弾痕や、刀痕が残っている。また、入浴中だった寺田屋の女将お登勢の養女・お龍(のちの龍馬の妻)が、龍馬に知らせるため、裸のまま駆け上がったと言われる階段もそのままだ。館内では、「この寺田屋は維新の舞台となった当時の船宿そのままでございます。これが現存することも珍しいことでございますが、この寺田屋の建物の中で歴史が作られたのでございます・・・」という音声解説が流れている。

ところが同誌は龍馬に関する書籍を元に、寺田屋は1868年の戊辰の兵火(戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い)で焼失していて、もとは現在の寺田屋東側にある庭に建っていたと推測する。さらに庭には「寺田屋遺址」と書かれた碑があり、地元の人は「東側の庭になっている別の場所に建っていたと祖父は話していました」と明かしている。にもかかわらず、「当時のまま」を謳うのは「食品偽装ならぬ『観光偽装』」ではないかとしている。

J-CASTニュースが寺田屋の経営者に取材すると、

「寺田屋は何度も人手に渡っていて、確かなことはわかりません。私どもが受け継いだのは1976年のことですが、その時から当時の建物だと言い伝えられていました」

とした上で、戊辰戦争で焼失したという説については、

「一部が被災して、修繕したようですが、どの範囲に及んだかはわかりません。しかし弾痕や刀痕、階段は当時のものだと認識しています。記事にあるような『偽装』ではありません」
と話している。

京都市は「聞いたことはありました」
記事を受けて、京都市も調査に乗り出した。依頼を受けた京都市歴史資料館は当時の資料の原文や建物の東隣の庭にある碑を検証していく。資料館担当者は、

「なるべく早く明らかにしたいと思いますが、資料の原文にあたるので時間がかかりそうです」
としている。

また、市のホームページでは、寺田屋に関する項目が2008年9月2日から削除されている。京都市産業観光局は事実を確認するまで載せないという。

もし建て替えられていた場合には、そのことを明記して載せる。さらに、寺田屋に対しては、

「今のままでは観光客の誤解を招くので、建て替えたものであることを明示してほしい」

と指導していく。

ところで、この疑惑を市は知らずにいたのだろうか。

「話を聞いたことはありました。しかし民間の建物だったことと、ご存知のように京都には神社、寺、文化財と星の数ほどの観光資源があり、市がすべて調査することはできません。各施設が責任をもって管理していただかないと」

2008年9月8日月曜日

睡眠時間

本日も皆様方には御國の為、お勤め御苦労様です。

いや~、部屋でネットができるというのはなんて便利なものか。とても実感している今日この頃。何でもできるわけじゃないですけど、かなり色んなことが出来ますからな。近代はすごい!ってか、日本を近代化にした維新の人達すごい!

ところで、最近睡眠時間を減らそうとも考えとるんですが、何か良い手はない㋜かねぇ~?レム睡眠とノンレム睡眠のネタ以外で、何か別に攻略法があったら教えてください。

これって、微妙なんですよね。例えば睡眠3時間で貫くことも出来るが、それだと日中の集中力に影響が出てくる。これだとやってる意味がないんで、まぁ、睡眠時間と効率よく付き合ってゆく方法、合理的な方法があれば教えてくらさい。

m(_ _)m

2008年9月7日日曜日

此処に復活。

 大変長らくお待たせいたしました。無事部屋にネットが、此処に復活しましたので、此処に復活です。

さて、このブログの名前でもある“粋華志義”が、Tシャツになりました!



むふふ。

こちらは、私が所属している鎌倉ローターアクトという活動の一環になります。

ところで、このブログもそうですが、最近、この鎌倉ローターアクトブログが熱い!!!是非皆様方にはお越しくだされたく存じ上げ候。

http://kamakurarac.blogspot.com/







タウンニュースにも出ちゃったりして☆




以上、今後とも御贔屓のほど。

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粋華志義ではMATT君を応援しています

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