2011年2月28日月曜日

ヤクニン

 「ヤクニン」という日本語は、この当時(幕末)、ローニン(攘夷浪士)ということばほどに国際語になっていた。

ちなみに役人というのは、徳川封建制の特殊な風土からうまれた種族で、その精神内容は西洋の官僚ともちがっている。極度に事なかれで、何事も自分の責任で決定したがらず、ばくぜんと、「上司」ということばをつかい、「上司の命令であるから」といって、明快な答えを回避し、あとはヤクニン特有の魚のような無表情になる。

(中略)

日本にあっては上司とは責任ある個人ではなく祠(ほこら)であり、ヤクニンとは祠に仕える神主のようなぐあいであるのかもしれない。

------------------------ココまで------------------------

なるほど、たしかに江戸文化が生んだものは華やかなものばかりではないということですな。それにしても、「極度に事なかれ」、「ヤクニン特有の魚のような無表情」とは、、、

('・c_,・` )プッ

正にその通りですな。

それから、「上司」という言葉以外にも、「会議」という言葉もよく使うらしい。このヤクニンは。要は会議という実態の知れないものを話にあげ、責任をすりかえてしまうのだ。

ただ、このヤクニンに「自分の意思がないのか!」とただ言うのは少々滑稽なことでしょう。何故なら、あれだけの封建制度があれば人がこの発想になるのはある意味自然な流れだと思うのです。いや、そう言うには時が経ち過ぎか!?

ともかく、この大変な副作用にどう立ち向かってゆくのか、我々ニッポン人にとって今後の課題でもあります。

こんな記事も↓↓↓


------------------------ココから------------------------
幕末から明治初年にきた外国人は日本の倫理風俗として礼儀正しさ、謙虚さ、出すぎないことなどを指摘し、かつほめた。しかし日本人に物事を交渉する場合、相手がほとんど意見を言わず、即断せず、いつも結論を宙ぶらりんにすることに手を焼いた。

これは交渉をうけたヤクニンが分際を心得すぎ「自分の役どころで、そういう問題は決めるべきでない」という倫理判断が慣習的にあったからで、上は老中から下は小役人にいたるまでこの倫理的価値基準でもって政治や行政上の課題の中で身を処していた。

「なにぶん先例になきことにて、御同役とも相謀りませねば私一存にては何とも御返答いたしかねます」

ということばが、行政の最高職から卑職の者にいたるまでどれほど使われてきたであろう。また、

「江戸の上司には深きお考えがあるかと存じまする。このことは長崎奉行たる私の職掌なれども、先例なきゆえ、遠国方の私が出過ぎてここで相許せば御政道の大本が立ちゆきませぬ」

というような慣用句も、長崎あたりでは日常つかわれていた。いずれも分際という個人の倫理感覚が、社会科学用語として考えていいほどに政治や行政の核心に入りこんでいたことを思わせる(むろん、この江戸的要素は、こんにちにいたるまで消えずにつづいているのである)。

2011年2月26日土曜日

【人間力第48回】再確認

 考え方や捉え方の違いというのは、あります。あくまでこの企画は自分が再確認するツールであります。


ホテイ様のギターを象徴するが如くの名曲。
ギタリズム全盛時代で画質は低いが伝わる、伝わる、伝わる。


成功より失敗からの方が学べるとしたら、失敗した者勝ちではないか。と考えたのであります。エジソン氏の言葉を借りるなら、そうゆうやり方(失敗した原因となる事柄)をするとうまくいかない、という真実を、少なくとも発見出来る。

そうなのだ、失敗というのがもしマイナスのイメージなりつつあるのなら、これから自分の自己啓発のプログラムに組み込んでしまおう。エジソン氏は電球が光らない方法を誰よりも多く、詳しく知ったから、電球を改良する方法まで辿り着いたのだ。失敗も自己啓発の内なのである。

ここでもう一度失敗の定義を思い出してみよう。

「やってみたが、うまくいかないこと」

くどいようだがこの章で述べる“失敗”とは、行動した結果得られる失敗である。行動に移さない失敗程ナンセンスなものはなく、学ぶことなどはない。なにも、進まない。そして、成長できない。ただの“評論家”になるのは、嫌なのだ。

2011年2月22日火曜日

【日本一周22日目】北海道

2002年8月4日、夏。

北海道。それは男のロマン。ロマン3日目。この日の写真を見てると北海道を満喫しているようです。

まずは、

五郎さんの家~、北の国からは見たことないけど、五郎さんの家~。とんねるずのコントでやってた、るーるるるる~しか知らないけど、ココが、五郎さんの家なのか~

五郎さんの家となるとやっぱり自然の中にポツンとあってですね、自然とあれば蜂なんかも飛び回ってるわけでして、某は夏なので短パンで運転してたわけなんですが、想像してみてください、短パンでバイクを運転していると、風で短パンの入り口は思いっきり開いてまして、もうお察しの通りその大きく開いた短パンの入り口から蜂が何匹か入ってきて短パンの中でブンブンブン、るーるるる~どころかブンブンブン。

コケましたね。

さて次は、

富良野のラベンダー畑~。もう、きれい!自然大好き!

で、

哲学の木~

、、、となるともう美瑛に到着したわけですな。富良野も最高ですがこの美瑛には、心を本当に打たれました。景色がものすごい。というか、とんでもない。日本にもこんなに壮大な景色があったのか、といったレベル。


マイルドセブンの丘~

おおお・・・テレビのCMで見る風景がちらほらと・・・


ケンとメリーの木~

おおお・・・なんでもない木なのに、何故こんなに心が打たれるのか・・・美瑛は、そんな感じ。

さて次の写真は、、、

あらら、

まさか、

もう、オロロン街道だ~

※オロロン街道とは、北海道でもっとも人気があるラインで石狩から延々322kmの海岸通り、北海道でも北の最果て稚内まで続くラインのこと。

・・・ということは、

おおお、日本最北端宗谷岬を制覇だ~

いつものポーズがこれほど似合う場所はないだろう。この写真の後はついつい男の本能が出てですね、うんちしました。最北端だし。なんというか、うんちしたら縄張りみたいな、そんなスタイル。

日本最北端でガソリンを入れて、例の三角形の旗をゲッツ。

げっつ。

どうせなら網走、釧路を周りたかったですがね、、、あと6日後には東京に戻らないと行けない・・・そう思ったらですね、網走、釧路はまたの機会と相なりまして、ほら、楽しみは残しておいた方がいいじゃないですか。というわけで、決して諦めたわけではない。

ということで、残り6日、7都県~

2011年2月20日日曜日

【人間力第47回】成功という自己満足に浸ってはならない

 実は、成功よりも失敗の方が人は自己啓発出来るという現実がある。


今回も、ホテイ様のバックナンバーより。
隠れた名曲、というよりこのライブ自体がBEAT EMOTIONです。

何も成功が間違っているということではなく、成功よりも失敗の方が良い、ということでもない。ただ、成功という環境に浸っていてはそこに自己啓発はなく、ついには退化していくしかない。失敗という階段を登って、到達した成功という名の踊り場にいつまでもいては、次のフロアに行けないのである。

これは、歴史を見ると単純明快だ。栄華繁栄した家、会社、文明、国家というのはその単位に限らず衰退、あるいは滅びの時期を迎える。その理由は共通していて、一言で言うとどれも“怠慢”と呼べるものだと思う。これが、人間の性質なのだ。

だから、「初心忘れるべからず」という金言が、今も重宝されているのだろう。人生バックはしない。でも、初心を忘れもしない、そんなスタイルです。

2011年2月17日木曜日

目的如何

 庄九郎の人生には目的がある。目的があってこその人生だと思っている。生きる意味とは、その目的にむかって進むことだ。
そのために悪が必要なら、悪をせよ。
善が必要なら、それを駆使するがよい。


進むことだ

大慾小慾

 「大慾の前には、小慾は殺すべし」

草種望望

 「草の種ならば、種によって菊にもなれば、雑草にもなる。が、人間はひとつの種だ。望んで望めぬことはあるまい」

2011年2月14日月曜日

【人間力第46回】先生の言葉の真実

さて本日も前回より続きます。

――例えば、今までにない失敗をしたとする、先の実践をして何とかこの失敗を次に活かせそうだ。つまり、利益の種はどこかと探し、なんとかそれを今後の糧とできそうだ。ここまで来た。ここまで来たが、やはり落ち込みもするだろう。且つ色々これからの為に考えなければならないこともあるだろう。
 『こうなったら、どうしよう』
 『あんなことが起ったら、もう終わりだ』
そんな時は、進路で悩む生徒と同じだ。

共通していることは、自分を見定め、自分の楽しい将来に向かってどう進んで行くかを今、考えるべき状況にいることだ。ポイントとして、考えるのは“楽しい将来”である。誰も辛く苦しい将来に向かって進め、とは言っていない。おもしろいはずの将来について考えるのだから、楽しんで考えて一向に差し支えない。

我々は、人生を楽しむ権利がある。不安は常に悲観的な心から生じる。そしてそれが大きくなると自分の健康を蝕んでゆくばかりか、行動にも影響し、つまり人生を壊していく、ついには運命をも壊しかねない。

たしかに、上記の『こうなったら――』とか、『あんなこと』が将来に起らぬとも限らない。しかし、起らないかも知れない。起るか起らないかは誰にも解らないし、起るか起らないか答えはないのに、起ったことを悩んでも仕方がないのである。

これは車に乗ってドライブに出かけるのに、交通事故が起ることを悩んでいるのと全く同じことなのである。電車に乗る前に、脱線事故が起ることを悩んでいるのと全く同じことなのである。あるいは、外出して通り魔に会うことを恐れて、一歩も外に出ない悩めるひきこもりと本質はなんら変わりがない。このひきこもりに一言アドバイスがあるとすれば、家の中も殺人強盗に襲われる危険性があるということだ。つまり、つきつめて考えていくと、真面目にこの悩みに応えるならば、この章のはじめにも言った地球上で最も安全な場所――刑務所――に行くしかない、というのが某の本質的な答となる。でも某は、刑務所には行きたくない。

これは余談だが、この考えの例を出すと、長時間の仕事で疲れて「疲れた~」「昨日一睡もしてないのに!」と口にするより、終わった後のビールを考える方が単純に楽しい、というアレである。江戸では、寒い時に「寒い」と言うのは野暮とされていた。野暮とは、粋の反対語である。つまり、不粋のことを言う。寒いのに寒いと思考すれば、寒くなる一方なのである。疲れているのに「疲れた」と言えば、その「疲れた」に人間の司令塔である脳が支配され、疲れる一方なのである。「昨日一睡もしてないのに!」と口にすれば同じく、眠くなる一方、だるくなる一方、疲れる一方なのである。まとめますると、起るか起らぬか解らないことを心配して悩むことは、誠に百害あって一利もないのである。

それでも最悪の場合に備えて、こんな方法もあることを再確認する。その心配事において、起こりうる最悪の状態を想像することだ。想像したら、覚悟することだ。その覚悟があれば、どんな物事にも動じない、というものである。

これは、藤堂高虎氏より学んだ言葉であります。
「寝室を出るときから今日は死ぬ番であると心に決めなさい その覚悟があればものに動ずることがない」

もう一度言うと、私には(人は誰でも)人生を楽しむ権利があるのだ。その為にも明るく考える。なんせ私は“楽しい将来”の為にどうするかを考え、ソレに向かって進もうとしているのだから!

ただしこの章のはじめに記述した、失敗の対処法④にあった通り、単なる楽観主義では何も活かせないまま終わってしまうので注意が必要だ。つまるところ、“考えて行動できる楽観主義”が望ましい。

前回の先生の言葉が思い出される。
「何でそんなに暗くなるんだ。君達の将来を考えているんだから、もっと明るくなってもらわなくちゃ」

2011年2月13日日曜日

布袋アニキ

某は、言うまでもなく布袋アニキが好きだ。某のあまり使わないミクシィのプロフィールを見ると、[好きな有名人]の欄に「坂本竜馬 高杉晋作 土方歳三 布袋寅泰」とある。すごい、現代人であるのは唯一布袋アニキだけである。

一言で言わせていただければ、布袋アニキは“粋華志義”たる人間なのだ。

小学校のボーイ時代から聞いてましてね、もう、アニキで育ったようなもんです。高校では布袋の新曲が出るとラジカセ肩にかついでガンガン流しながら通学してましたからね、特にスリルとか。初めてライブに行った時なんか感動して涙出そうになった。

そんなアニキの魅力はやはりギター。生き方というか、考え方とかも非常にワイルドで最高なんですがね、やっぱりギターはたまんない、というか、とんでもない。日本ではよくB'zの松本氏と比べられるが、世界でもトップクラスでしょう。

久しぶりに布袋さんの曲を、聴いてみたわけであります。



この曲とか、もう、たまんない。というか、とんでもない。まだ覚えている。中二の頃、隣の兄の部屋からこの曲がよく流れていて、なんというかこのメロディーにすごい衝撃を受けたのであった。最後の部分とか、もう、すごいね、というか、とんでもない。正に、六本弦の化物であります。

このギターソロのメロディーがメリーゴーランドのように某の頭の中をぐるんぐるん回って、回って、回り続け、これが弾きたくて、このフェルナンデスのギターを買ったんだよなぁ。。。(ちなみに、その後高校でバンドを結成、そのドラムがあのレボレボでした)

これからちょくちょくこのブログにて紹介していこうと思います。

2011年2月11日金曜日

一年前のブログ

 さて今回は、一年前のブログよりのバックナンバーです。それではどうぞ!

-------------------------ココから-------------------------

いぇ~い、竹富島行ってきたぞ~
っと、
思っていたのだけど、
どうやら、そんなことを言っていられなくなってきた。

なぜならば、本日は、

日本国の建国記念日。

周知の通り本日は初代天皇・神武天皇が即位した日である。


今日も話題に出たが、それは知っていても、
それがいつだかは、意外と知らない人が多い。
地球に存在するすべての国で、一番長い王家は、
日本の、天皇家である。


天皇家は、実に、2670年の歴史を持つ。
つまりは、神武天皇の即位された日は紀元前660年と言われており、
その日をもって、日本が建国された日とし、今日となっている。
これは、竹富島どころの話では、ない。


「2009年現在、世界には27の王室が存在している。現存する王室で最も長い歴史を持つのは、少なくとも6世紀まで遡る日本の皇室であり、これに次ぐのは、10世紀まで遡るとされているデンマークの王室である。」
―――Wikipediaより抜粋。



これまでの日本は、幾度となく、他国からの侵略を乗り越えてきた。
それだから、今の日本が存在し、今日という日を迎えられる。
それを、自分の国の国旗を掲げただけで、
「右翼だ」
と思われる国ってどんなだ?
こうゆう話をしただけで、
「右よりだ」
なんて言われる国ってどんだけ?
世界中見渡したってそんな奇妙な国、どこにも、ない。


今日という日くらい、俺はニッポン人として祝いたい。
だから、今日は、めでたい日なんだ。


2011年2月9日水曜日

戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩


------------------------ココから------------------------
戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。

 ドイツの国立軍事文書館の資料で、10年ほど前にドイツ側の研究者が存在を紹介したが、詳細が不明だった。

 箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。


 (1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。


 この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

 会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。

 箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

 明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。(渡辺延志)
――asahi.comより
------------------------ココまで------------------------

うわ~、幕府の小栗上野介が北海道を担保にフランスと交渉していたのは有名な話だが、会津はドイツと交渉していたのか~。薩長の味方というわけでもないが、あの戦で例えば歳三が勝っていたら、日本は喰われていたかもしれん~

司馬さんにお伝えしたい。

いかん、いかん、某は今、戦国時代にいるのだ~

2011年2月6日日曜日

【人間力第45回】楽観主義

とは言っても、実際に“行動”していると辛い状況は必ずといっていいほどやって来る。



失敗もつきものだ。そんな時に自分で自分を励ます必要がある。仕事中や、友人など人と一緒にいる時はまだいい、しかしお風呂に入っている時や夜就寝につく前など、特に一人になった時に不安や絶望は襲って来るものだ。こうした時の時間の使い方としても“瞑想”について追々追求していきたいが、ひとつの考え方として楽観することを今ここでは考えたい。

「何でそんなに暗くなるんだ。君達の将来を考えているんだから、もっと明るくなってもらわなくちゃ」

進路について話している時に学校の先生が言った言葉なのだろう。これはなるほど、道理に適っている。そしてこれは逆境の中の自分にも置き換えられそうでもある。例えば――

to be continued...

2011年2月5日土曜日

卒業――

 怒涛のバンコク編、つまり某がバンコクにまだいた頃、旧来の友人が遊びにきた。その友人は、なんと神の子である。神社の息子なのだが、その神社が行う地元の祭は西暦720年頃から行われているともいい、Wiki等にも紹介されている。

思えば彼は学生時代から物知りだった。比べて自分が無知だったからかも知れないが、全般的に“大人”の常識というものを、例えば中学生の頃から持っていたようだった。いつだったか、当時行きつけのガストに彼を呼び出し くそ真面目に「何でそんなに物知りなのか?」と問うたのは、あれは彼がアメリカに行く前だったか、それとも帰国してからか。

高校に入り1年、某がハイスクール生活をエンジョイなうしていた真っ最中に、彼は単身アメリカに留学した。今でも覚えている――中学の仲間でその母校に、それぞれの高校の制服を着て恩師を訪問した時だ。その時にはすでに、彼はアメリカに行く決心をしていたらしい。「日本は狭すぎる」、たしかに彼はそう言い残してアメリカに旅立った。――そうか、日本は狭いものなのか。

話は元に戻る――バンコクに来たその友人は、それまでに来た友人とはやはり違うようだった。街を歩いていても木に注目しこの木は樹齢何年くらいかとか、墓を見ては火葬か土葬かなどと聞いてくる。今思えば、某にとってどこか神秘なこの友人のあの時の(母校での)言葉がバンコクまで導いたのではないかとも思える。

そんな彼が、「お前はこれを読め!」と日本から持ってきてくれたのは、

「竜馬がゆく」全八巻であった。

彼が歴史にも精通していることは知っていたが、特に興味のない分野であった。ただ、当時はすでにバンコクに棲んで2年ほどは経っていたから、少なからず日本の外に出て、その良い部分、悪い部分なども見え、日本(ニッポン)というものを知るのもまんざらでもなかった。

彼が言うには、特に彼のアメリカ留学時代、相当読みふけったと言う。某とくれてくれたのと同じように人にあげてしまい、また自分で読みたくなり買い改め、また人にくれてしまう。これを何回も繰り返していると言う。なんでも、読むと元気が出るそうだ。

ともかくも「今のカリには必要だ」と言うのでためしに読んでみたのである。2巻くらいまではなんともなかった。3巻から、ひょっとし始めた。4巻に入ると、衝撃が走った。「こんなことが、あったのか」と。

それでも「竜馬がゆく」だけでは、当時の全貌が見えてこない。坂本竜馬以外では、どのような状況だったのか?ムショウに知りたくなった。自分の国で、たった150年前に、このようなあり得ない出来事があったなんて、知らなかったのだ。こうして、幕末に狂い始めたのである。携帯番号の下四桁は坂本龍馬の誕生日にして命日である1115、会社を起こせばその設立はやはり11月15日、東京龍馬会に入り、全晋連(全国晋作連合会)にも入会した。燃えよ剣を読んでは飛行機の中で人目を気にせず号泣し、京都の供養巡りでもやはり男泣きをした。

司馬遼の作品以外も、勿論読んだ。いくつも読んだ。しかし、やはり司馬先生の作品がダントツにいい。「竜馬ゆく」にて、幕末を知った。これは言うまでもなく坂本龍馬が主人公で、あえて言えば土佐の、しかも下士からの視点から見た幕末と言っていい。

「世に棲む日日」では、吉田松陰、つづいて高杉晋作が主人公の、長州の視点で見た物語。特に長州(現在で言う山口県)という一地域が、米英仏蘭に大砲をぶっ放して宣戦布告し、且つ朝廷からも朝敵とされ、といった事実があったなどとは、これもやはり衝撃を受けた。

「燃えよ剣」では新撰組という、言わばそれまでミーハーとでも思っていただろう組織の副長、土方歳三からの視点だった。彼の男気には、参った。そりゃ、飛行機の中で号泣もするだろう。あん時ばかりは、ほんとに、涙が滝のように流れてた。

「酔って候」は幕末当時に“四賢候”と称されたつまり、土佐の山内容堂、薩摩の島津久光、伊予の伊達宗城、肥前の鍋島閑臾の、それぞれの大名という立場からの視点で描いた物語。やはり、当時の状況を大名視点でかいま見ることができる。

「花神」では長州藩の村田蔵六、改名後は大村益次郎の軌跡をたどる。長州藩でも村医者としての彼はやはりこの幕末というドラマには必要不可欠の役者であり、果たして歴史に名を残した。彼が靖国神社を創ったあたりは、現代にも通じるものがあった。

「翔ぶが如く」では、ずっと気になっていた大政奉還、戊辰戦争の後から日本最後の内乱とも言われる西南戦争までを描く物語。ココでの収穫は、西郷どんの奇跡も去ることながら、大久保利通という男の偉大さだった。それまでは単なる陰険な、武士の風上にもおけんものだというありがちなイメージだったが、彼こそ世界史上稀な大人物であることを知った。

「幕末」では、幕末の12の“暗殺”を描いた短編集。幕末という舞台を作った清河八郎、坂本龍馬のあと海援隊による花屋町襲撃事件などをも含められる。また、桂小五郎のストーリーも幕末を知る上でも欠かせないだろう。

「最後の将軍」では、700年続いた武家政治というものを、幕府の最高職 将軍自らの手で葬り去った苦悩の生涯を描く。なお、ここでは言うまでもなく将軍という立場からみる幕末が描かれている。

「峠」では、戊辰戦争で東西が割れる中、最後まで中立を守り貫き通した長岡藩・河井継之助を描かれていた。幕末に話題にされやすい薩長土・新撰組以外の「立場」から見る幕末がそこにある。

「人斬り以蔵」では、以蔵の視点から見た武市半平太や土佐の情景をみることができた。短編集であり、今はどういった物語があったのかは忘れたが、それぞれの「立場」の違いからそれぞれのドラマがそこにはあった。

「十一番目の志士」は、残念ながら主人公は架空の人物であった。しかし、その架空の人物から見る高杉晋作がまたリアルで、変わった視点で特に高杉晋作を見ることができた。

「新撰組血風録」では、騒乱の世を、それぞれの夢と野心を抱いて白刃とともに生きた男たちを鮮烈に描くこれまた短編集。新撰組でも、近藤や沖田をはじめとする各隊士の視点からみた新撰組、あるいは夜明け前を見ることができた。

「坂の上の雲」はいわゆる幕末ではないが、当時は帝国植民地時代でありアジアは列強に植民地とされいた時代でもある。その中でも植民地とならなかったのはアジアでは日本とタイだけである。その国の内乱につけ込むのがその手口だったそうだが、日本の幕末などはその典型パターンであった。どころか、ヨーロッパでも最も古い大国・ロシアがあからさまに南下政策をとってきて、日本は追い込まれる。正に、アジアの他諸国と同じように列強の植民地になるか、それがいやなら戦争するしかなかった。戦争するといっても、江戸時代から明治になって間もないこの小国が戦うなど子供が大人(それもただの大人ではない)に戦いを挑むようなもので、要するに話にもならなかった。特にロシアのコサック騎兵は世界最強と謳われ、バルチック艦隊は不沈艦隊と言われる陸軍・海軍を持つ列強の中の列強であった。この物語は、幕末の夜明け後の日本がいかにしてその艱難に立ち向かい乗り越えたか、というものでやはり幕末とは切っても切れない物語なのであった。


――このように、幕末というひとつの時代を、いろいろな立場から、視点から見てきた。立場が違うことにより、それぞれの「正義」がそこにはあり、ここに「時勢」という要素が加わることにより最高のドラマがそこにつくられた。具体的には武士社会という世界でも精密であるいは奇妙な「江戸の幕藩体制」の終焉と、帝国主義である「国際情勢」が組み合わさることにより生まれる一種のエネルギーが、すごい。

某は、この幕末を知ることによって随分と人生観が変わったのか、見る世の中というものが違って見えるようになっただろうか。ともかくも自分という人間がどこから来て、自分の国がどういったものなのか、つまりは自分のアイデンティティーを確立できたと思っている。自分の心の中に何というか、大きなぶっとい柱ができ、自分なりの考え(哲学と言っても良いものなのか)、また自分はこうあるべき義というができたようで、多少のことではぶれない。

このブログの冒頭に出てくる彼もまた、10代のうちにアメリカに渡り一人で生きていく時に「竜馬がゆく」を読み自分のアイデンティティーを確認し、あるいは自分の元気を奮い起こしたのだろう。

このように、実は幕末で学んだことがまだいっぱいある。また、あの時のそれぞれの艱難に比べると、今自分にふりかかる艱難などは小さく見えたりもする。当時の教訓から、今の自分の糧にできるものが非常に多かった。最後の胡蝶の欄より、ひとつの例を出してみたい。


-------------------------ココから-------------------------
分際とは、封建制のなかで、身分ごとに(こまかく分ければクラスの数が千も二千もあるはずである)互いに住みわけてゆくための倫理的心構えもしくはふるまいのことで、封建制を構成するための重要な倫理要素だと私は思っている。ただし、惜しいことに社会科学大事典や哲学事典には載っていない。

『広辞苑』では『太平記』の文例をあげ「敵の分際を問ふに、・・・・・・和田が勢ばかりわづかに五百騎にも足らじと」ということで、「程度。(数量の)ほど」という意味を第一の語義としている。『太平記』が成立する室町期には以下の第二の語義がまだあらわれていなかったのであろうか。

 江戸封建制が精密化してゆくにつれて、分際は「身のほど。分限。身分」という内容のみにつかわれ、津々浦々あらゆる階層のひとびとにあらゆる場所で日常的につかわれた。人を説論するとき、自らを戒めるとき、このことばは欠くべからざる倫理用語として頻用された。

「分際を心得ろ」
「それは私どもの分際にあいませぬ」
それがやがてつづまって、
「分をわきまえぬやつ」
「二日二度も食膳に魚がつくなど私どもの分に過ぎたることでございます」
というふうにつかわれた。

===中略===

 ――江戸期の分際という倫理は、人間の普遍的美徳である謙虚、謙遜、恭しさというものを生み、ついにはときに利他的行為までを生むほどの力を持った。同時に強烈な副作用として日本人に卑屈さを植えつけた。

 幕末から明治初年にきた外国人は日本の倫理風俗として礼儀正しさ、謙虚さ、出すぎないことなどを指摘し、かつほめた。しかし日本人に物事を交渉する場合、相手がほとんど意見を言わず、即断せず、いつも結論を宙ぶらりんにすることに手を焼いた。

これは交渉をうけた役人が分際を心得すぎ「自分の役どころで、そういう問題は決めるべきでない」という倫理判断が慣習的にあったからで、上は老中から下は小役人にいたるまでこの倫理的価値基準でもって政治や行政上の課題の中で身を処していた。

「なにぶん先例になきことにて、御同役とも相謀りませねば私一存にては何とも御返答いたしかねます」

 ということばが、行政の最高職から卑職の者にいたるまでどれほど使われてきたであろう。また、

「江戸の上司には深きお考えがあるかと存じまする。このことは長崎奉行たる私の職掌なれども、先例なきゆえ、遠国方の私が出過ぎてここで相許せば御政道の大本が立ちゆきませぬ」
 
 というような慣用句も、長崎あたりでは日常つかわれていた。いずれも分際という個人の倫理感覚が、社会科学用語として考えていいほどに政治や行政の核心に入りこんでいたことを思わせる(むろん、この江戸的美徳は、明治後こんにちにいたるまで消えずにつづいているのである)。

 身分と分際の社会である江戸期で、それらを超越することができる道がわずかながらひらかれていた。

 たとえば、武術と学問であった。

 江戸の旗本の子弟は怠け者と相場がきまっており、よほど好きな者以外は町道場に剣術を習いにゆくということはなかった。

 そういう貴人の子弟でも、まれに町道場に入門したりすると腕達者の卑賤の身分の者から分際なしに竹刀でたたかれた。町道場での序列は浮世の身分が通用せず、修業の優劣できまっていた。卑賤の身分の者でも剣技をみがけば諸藩にめしかかえられて士分になることもあり、たとえそういうことがなく浪人身分のまま道場持ちになっても社会的に尊敬を払われた。江戸期の諸流派の流祖がほとんど農民出身であることをおもうと、江戸体制というものの通風装置が案外なものであったことがわかる。

 学問においても、この事情はかわらない。

 江戸期に名を知られた大小の学者に、江戸の旗本出身というのは皆無にちかいのではないか。ほとんどが農民、諸藩の下級の士・卒の出身であり、それも将来を保証されている惣領息子である場合がすくなく、前途に何の保証もない次男、三男の出であった。

 学問にせよ、武術などの技芸にせよ、この一筋の綱にすがりつく以外に餓えから脱出することができないという恐怖感がひとびとを刻苦勉励へ駆りたてていたといえるし、逆にいえば最初から煖衣飽食を約束されている境遇の者に堪えられるものではなかった。
-------------------------ココまで-------------------------

このように、幕末という世界史上でも稀な革命を通じて、例えば上記のような大自然の法則だったり、人間の性質、もっと言えば日本人の特色はどこからきたのか、などということを知ることができる。ともかく、自分のルーツというか自分以外でもさまざまなことが繋がり、世の中の仕組みというのが紐解けてきた。特に海外に出て人と接する時など、自分が何者かが解っているのと(つまりアイデンティティーを持っているのと)そうでない場合は、うんと違うものだと思われるのだ。色々とこういったことを述べると止まらないので、と言うかそろそろ仕事もしなければならないので、本題に入ることとします。

こうして司馬先生の幕末作品を手当たり次第読んできましたが、昨日に最後の作品を読み終えました。最後は「胡蝶の夢」なるもので、松本良順をはじめとする医学の世界からみた幕末。医者と言えど松本良順は将軍をも診る奥御医師ですからね、今までにない視点でした。また、時勢の中で色々な葛藤があるのですがね、ともかくも「身分制」という江戸時代の特色についてまた勉強になるものでした。幕末当時、医者の世界でも闘いがあったのですね。

冒頭の彼が「竜馬をゆく」を持って来て幕末狂いになってから7年、昨日最後の作品を読み終えたことにより、幕末を卒業します。これより、戦国時代に入ります。

2011年2月2日水曜日

【日本一周21日目】函館~札幌

 2002年8月3日、夏。

北海道。それは男のロマン。

いや、正確に言うとライダーにとって。そもそも日本というのは、せまい。海外に出るとその大陸の広大さに驚くのが、我々島人(しまんちゅ)の宿命なのかもしれない。その道は広く、あるのは天とひたすらに続く一本のロードライン。その道を地平線の向こうまで進んでゆくのだ。バイク乗りはこうして、せまい道路と高層ビルに囲まれた都会の喧騒から抜け出して、北の大地を目指してゆく・・・。

北海道を走っていると、すぐに気づいたのがライダーとすれ違う時。真夏の北海道だけに、全国からバイク乗りが来ているのだろう、一気に旅人ライダーとすれ違う回数か多くなった。多くなったどころではない、もう、いっぱい。

すれ違うバイクが、旅人ライダーかどうか見分けるのは簡単。
 1.それなりの荷物を積んでいる。
 2.旗を刺している。
 3.すれ違う時、手を挙げて挨拶する。

1はそのままです。2はですね、これは某も現地に着いて知ったんですが、なんかみんな三角形の旗を指してるんですよ。それはどこで手に入れるのか聞いてみると、ホクレン系列のガソリンスタンドで入手できる、しかも道東、道北、道南エリアの三種類の旗があるらしい。各エリアの旗は各エリアでしか入手できないですからね、3つも刺してると、「すごい、北海道マスター!かっこいい!」とこうなるわけなんですな。

3は、これも現地に着いて知ったんですが、一種のマナーというものなんですかね。なんでもないことなんですが、これ、やられるとすごく嬉しいものです。今まで一人で本州、四国、九州、沖縄を周り、日本海を経て北海道まで来ましたが、北海道にきて目的は違えどライダーという境地で仲間、同じ志を持つものじゃないですか。その同志と道で走り、すれ違うたった一度の瞬間、一期一会に手を挙げて挨拶する。ええじゃないですか。

以上の点が挙げられますが、でも、まぁ、解りますよ。旅人ライダーかどうかなんて大体。何故ならカッコが違いますもん。わかります?重装備というか、北海道へはりきって県外からツーリングしにくるわけですから(勿論、道民のバイク乗りの方も)それなりにバイクだって大きい、1000ccを越えるバイクに乗っている人も珍しくはないのではないか。

ですから、雰囲気もありますし、バイクを走っていて向こう側からくるバイクが現地の人か、それともライダーか?もっと言えば、この人は手を挙げて挨拶したらいいのかどうか、考えるまでもなく、なんとなく解ります。それに、真夏と言えど北海道で走るにはそれなりの上着をみんな着ている。中には皮ジャン着てる人もいた。そんなわけで大体わかるのです、見た目で。

かく言う私は、

こんな格好、寝袋着てるし!半そでだし!両手でピースしてるし!

だって寒いんだもん。いやですね、ほんとに寒かった。今まで「寒い!」などと言うのはなんか負けた感があるので言ったことなかったが、いや、寒くなったことはなかったが、この時だけは寒かった。真夏なのに、風を切って走ると寒い。しかも道端に適当な服屋さんもないし、もう「男のロマン!」とか言っている場合じゃなくてですね、寝袋着ました。

寝袋着て乗っているバイクはTW、つまり200cc(北海道では小さい!)、半そで短パン、完全に北海道をナメとるしか思われない。ですが、そんな私にもすれ違う同志は愛想よく手を挙げてきてくれる。やっぱり、なんて北海道はいいところなんだ。

そして、長~い道のりを経て、

ついに、札幌に到着~。右のおじさま、ジャケット着てる、やっぱり北海道は8月3日といえど、寒いのか。それに比べて某は、随分黒い。

札幌と言えば、北海道の大御所ですからね、やっと来た感がありました。北海道についたらやっぱりこれ、

札幌みそラーメン、ずっと食べたかった~、このご当地ラーメン。


そして、札幌の時計台~。某の田舎に何故かこの時計台の絵がありまして、物心つかない時から田舎に行っては無意識の内に目にしていたもの、時計台。その絵を見る度に身長も伸び、あるいは悩み、あるいは反発したりして育った某が何気なく目にしていたもの、時計台。「サッポロ」という、遠くて行く機会なんてまるでなかった土地にある時計台。その本物が、今目の前にある~。

写真を掘り起こしていくと、

ジンギスカン~、そういえば、ジンギスカンの店がやけに目に入ったので食べてみました。

いやぁ、北海道は想像以上にでっかいどう、この日はこの写真で終わっています。では今回も当時の記録を見てみましょう。


-----------------------ココから-----------------------
8/3、北海道は思ったよりでっかいどうな事を知り今朝5時に出発、やっと300kmの道のりを越え札幌に到着。それにしてもさみー、さみーんだよ、いつかの掲示板でのミニもんたさんの言葉がでてきた。ミニもんたさん、おいらの負けだ。さみー、さみーから、寝袋を着た。ははは。俺、丸、寝袋、着た。これでいいかな?ミニもんたさん?
続きは後で・・・・。

8/3、あれから札幌観光した後、富良野まで目指す。途中の長沼あたりで雨と寒さに出会う。長沼名物のジンギスカンを食べ、再び富良野を目指すがこの峠、全身雨で濡れてるので震えが止まらなかった。「心頭メッキャクすれば涼しもまた火。」と口に出しながら越えた。この日はライダーハウスでの就寝。ここで出会ったライダーの中にはヒッチハイクで来てる人もいた。
制覇→北海道札幌市。
-----------------------ココまで-----------------------

さすがに北海道では外の野宿はしてませんね、ジンギスカンは長沼名物だったのか~

ということで、日本・札幌を制覇、残り7日、7都県~

関連記事

The Test of OM●TENASHI™

粋華志義ではMATT君を応援しています

月間人気記事ランキング