2011年8月30日火曜日

国家安康

 批判する事は誰でもできる。誰でもできるどころかそれ自体“評価するに値しない”人ほど批判をしたがる。つまり、自分が批判している人の立場に立ってもそれが出来ない人がどちらかと言えば多いのでは、という事だ。自分ができないのなら、(批判されている)当人の心境も解らぬはずだ。周りを取り巻く環境も見えにくい。ましてや同じ経験、とまでは行かなくとも同じような本質の立場に立ったことがない人間が他人を批判していても、埒ぁない。

大学教授の知識が実社会ですべて必ずしも通用するわけでないのと同じか。その人を理解するには“本当に”その人の立場に立って考えてみねばならない。その人の立場に“本当に”立ってみると色んなモノが見えてくるのかも知れない。

「鳥の目、魚の目、虫の目」というのを教えてもらったことが、ある。虫の目というものは今目の前に見える世界のものをせっせとこなしていく。魚の目というものは川の流れをよんで生きていく。鳥の目は空から全体を見る視点、つまり川の流れすらを含め上から見据えその方向性の舵取りをしなければならない。これは企業でも国でもあてはまる組織の考え方であると言えよう。

そこでだ、私はココ10年くらいも鬱屈していることがある。虫や魚が、どうも鳥の批判をしている模様甚だしい。――とは言わない。虫や魚でも、鳥の立場に“本当に”立ってモノを言う人も中には、いる。解り易く虫や魚などと言った例えを引用しているだけであって、例えられているのは我々人間、その思考をもってすれば虫や魚の“立場”であっても、考えることができるからだ。それにしても何も考えずにただ周りの情報に洗脳されて勝手気ままに鳥を批判しても良いものだろうか。何も考えが基づいてない批判など、虫ケラの鳴き声に過ぎんのだ。

鳥は風を読み、天候を意識し、空から地上全体を見て飛んでいかねばならない。地に降り立って餌を食べなければ生きていけないし、そこを誤れば逆に殺されてしまうかもしれない。卵を安全に保護できる巣の場所選びは鳥から見た視点の(あるいは鳥にしか解らない)条件や考え方があるはずだ。その景色や世界観は、虫や魚とはまるで違うのだ。

かくして、何も考えない虫や魚が協力して鳥を空から引きずり落としている。――そんな村落があったとする。虫や魚は人の批判しかしないものだから、自然揚げ足をとる思考法になっている。物事の世界はすべて我々の思考からスタートしている。相手の悪い点ばかりをピックアップし批判する思考になってしまっているので(鳥を空から引きずり落とすという行為が)繰り返される。どんなに優秀な鳥が現れても一つの悪い言動が虫や魚には大きな汚点とでしか見えず、そうなるとその鳥の行動すべてに文句が出てくる。そもそも完璧な“鳥”などいないのに――。こうして鳥の“頭数”が減って来る。

――これを、じっと見ている者がいる。隣の村落だ。隣の村落は虫や魚を煽り立て煽り立て、この目に見えない内乱を盛り立て、この村落自体の体力を失くしてしまう。そして、この村落をはじめは一部なりとも“合併”という聞こえの良い形から吸収し、やがては村落をまるまる乗っ取ることを考えている。百年計画(長期計画)なので、今浮世を生きている者には気づかない。

しかし、ここで終わってしまっては某も虫や魚の一匹になってしまう。だから自分ではこう考えている。その人のことが本質的に解るまでは、批判はしない。批判は断定だ。だから、批判をする時があるとしたら、その人と出来れば肚を割ってからにしたい。いずれにしても批判とはえてして批判のみだから批判となる。自分だったらこうする、という自分の“意志”が伴えばそれは批判ではなく“意見”となる。自分の意見もない虫が鳥を批判するなど無用も無用、有害の無用である。大事なのは批判ではなく、意見だ。←ココの、違い。

人の批判をし、問題を人になすりつけ、“鳥”を空から引きずり落とすその愚行が治まらねば、この村落は内から崩壊する。

景勝兼続其の弐


“義”の景勝




“愛”の兼続



好きだな~ この二人

【人間力第61回】何故、すぐに怒っては不利なのか



第二部のハジマリです~

では、小さい事でも(感情的に)怒ってしまうとどうなるのだろうか。「世界や可能性を狭めてしまう」ことは先にも触れたが、もっと具体的に考えてみる。

恋人とレストランに行った。今日は記念日ということもあって、いつもとは違う格式の高いレストランに予約をした。良い雰囲気の中食事を楽しんでいたが、何としたことか、店員がお皿を片付ける時に落としてしまい、恋人のドレスアップした服にかかってしまったではないか。

ここで、その恋人は激怒した。もうその店員に怒鳴りまくっている。「どうしてくれるんだ(のよ)!」「弁償しろ(しなさいよ)!」この大声で激怒している恋人を見て自分はどう思うだろうか?そう、自分が怒るのかどうかではなく、他人が怒っている姿を見て、自分がどう思うだろうか?

これも例によって答などはないが、私ならその怒っている姿を見て、かっこいい、素晴らしい、頼りになる、などとは思えない。おそらく、多くの人がそうであることなのでしょう。ここで逆に少しも怒ることもなく、余裕を持っていられる人であれば、その品格ある人間力に感嘆することだろう。

これもまた、人間力なのだ。

2011年8月28日日曜日

景勝兼続其の壱

 
「恐れながら お断りいたします。
我が主君は 上杉弾正少弼景勝をおいて他にございませぬ。
それがし 幼少の頃より主 景勝に仕え
共に命を懸けてこの乱世を生き抜いて参りました。
十万億土に旅立つ日こようとも 主の傍を離れるわけには参りませぬ」



申し遺すこと
本日御城中にて我が身並びに家老兼続に万が一の事ある時は家来一党直ちに大阪を発し例え四千人が四人になろうとも必ずや越後に帰り着くせき事
皆に我が無念を伝えたのち天下の軍勢を引き受け一戦に及ぶべき事
関白殿下は主従の仲を裂き君臣の道を汚す不義不道の人と知れたり
その軍勢百万を誇ると言えども恐るるに足らず
義を貫くべし
例え家中残らず討ち死にとなろうとも上杉家正義の義名を千年の長きに伝えるべき事

2011年8月22日月曜日

【人間力第60回】怒の攻略法 の続き

お久しぶりです。人間力、前回の続きです。


このライブ,一旦ここで小休憩。

または、こんな動作や考えもある。

・深呼吸を3回する
・相手が何故そういう事を言うのか(するのか)を客観的に考える
(自分は当事者である為に感情的になるのであって、客観的に、ということが大事)
・相手の長所を探す

以前、ある人の講義を受けに行ったのだが、その方は手首に輪ゴムを常にしていて、そうゆう場面になった時、ビシッとやるようだ。自分で自分のルールを勝手に作ってしまうということである。「ビシッとなったら平常心」ということを自分で決め付けてしまう。ここでも、はじめは意識が必要だろうが、やり続けていればそれが習慣となり、やがて無意識の内に平常心の状態に切り替わるスイッチとなるだろう。ともかくこのような、自分に合った平常心へのスイッチを持っておくと便利なのでしょう。平常心、と言えばあのイチロー氏も心がけている境地であります。

または、こんな方法もある。プライドを捨てる、というやり方。違う視点から見ると、人は自分のプライドを傷つけられたが為に怒りを顕にする、という場面が多くある。勿論、これは一概には言えないが、それが変なプライドなのであれば捨ててしまおう。そのプライドはもしかしたら、自分という人間の器を知らずの内に小さく抑えてしまうものかも知れない。

天下人

 
「なかぬなら殺してしまへ時鳥」

「鳴かずともなかして見せふ杜鵑」

「なかぬなら鳴まで待よ郭公」



いずれも偉人。

忠誠心

 「日本人はその主君に対して忠誠心がない」

と、戦国期に渡来した南蛮の宣教師がローマへ書き送った報告書のなかで語られている。「機会さえあれば主君の座をうばったり、敵に通じて寝返ったりする」という、その観察は、多くの実例があるために不当であるとはいえない。

家康はこの日本人に忠誠の倫理を教えるために儒教をとり入れ、やがて江戸教養時代がはじまるのだが、且元は南蛮人が指摘した観察の実例たるべき人物であった。


神社仏閣

この時代(1614年)は、平安期ではない。戦国期を経て世間のひとびとに合理主義が自然とそだち、神仏など人の吉凶になんの役にも立たぬことを、この時代の大部分の人が知っている。それがこの時代の特徴の一つでもあった。

2011年8月18日木曜日

上杉義軍




「吾等は上杉の侍、敵に屈して生き恥を曝すより死して侍の道を貫く」

2011年8月16日火曜日

噂の市

 伊賀者のあいだで、

「市」

とよばれる集まりがある。

市とは、噂の市である。甲賀者の社会にはない。市というのは敵味方各家につかえている伊賀者が、京なら京、大阪なら大阪で、月の何日かの夜陰、ひそかに会合し、それぞれが耳にしている情報を交換しあうのである。世の情勢は大小となく、この「市」でわかってしまう。

文句

 文句を言うヤツは、どんな状況でも文句を言う。

逆に、文句を言わないヤツは、どんな状況でも文句は言わない。

それは、文句を言ったところで何もはじまらないことを知っているからだ。

人が文句を言っている間に、事を成す人間はすでに行動を起こしている。

2011年8月5日金曜日

男子晋作

 高杉晋作は平素、同藩の同志に、

「おれは父からそう教えられた、男子は決して困った、という言葉を吐くなと」

と語っていた。どんな事でも周到に考えぬいたすえに行動し、困らぬようにしておく。それでなおかつ窮地におちた場合でも、

「こまった」

とはいわない。困った、といったとたん、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。

「そうなれば窮地が死地になる。活路が見出されなくなる」

というのが、高杉の考えだった。


「人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。しかし死地におちいればそれでおしまいだ。だからおれは困ったの一言は吐かない」

と、高杉は、陸奥にもそう語っていたという。

仙人談話

「言い給え」

と、永井尚志は小さくいった。なお警戒を解かぬ様子だった。

(俗吏め)
竜馬は思った。このように城壁を構えられては、互いの胸中が交流しあわない。あるいは自分の態度や言い方がわるかったかとも思い、

「こまったな」

としんから当惑した表情でつぶやいた。永井尚志はしばらくだまっていたが、やがて、

「なにがかね」

と、問うた。竜馬は自分のもっているかぎりの演技で明るく笑い、

「いかがでありましょう。幸いこの建物の名は閬風亭でござる。そこに池がある。あれは瑤池(玉を溶かした池)のつもりでありましょう。閬風瑤池とは仙人の住む山里のことだときいています。さればここでむかいあっているのは、大公儀の顕官でもなく、土佐うまれの浪人でもない。下界の人間ではなく、天界の仙人としてこんにちの日本の課題を話しあってみては」

「仙人かね」


「自然、下界に対して責任はない。なにをいおうと勝手です」


「言い給え」

永井は、竜馬のせっかくの趣向に乗ってやった。


「さて黒仙人としてはですな」

竜馬はいった。色が黒いから、そんな風に自分を名づけた。とすれば永井は白仙人ということになるだろう。

思考基礎

家康は、こういう点、人間というものがどういうものであるかに通じきっている。

秀吉もそうであったが、家康もこの能力をもって若年のころからつねに軍事と外交の思考基礎とし、そのおかげでこんにちの座までのしあがったといっていい。この点、さすがに正信や直政の比ではなかった。


「議場ではみな右顧左眄し、隣席の者の目の色をうかがい、たがいに肚をさぐりあってしかも自分に定見がない。そのとき、赤――と発言する者があれば満場どっと赤になり、白と発言する者があれば、われもわれもと白に走ってしまう。その瀬戸ぎわが、あすの評定である。されば事前に、口火を切る役をつくっておく必要がある」

(なるほど)
本多正信はそろりと膝をたたき、何度もうなずいた。家康はしばらく間を置いてから、


「その役目が、福島左衛門大夫正則だ」

家康頭脳

 
(わしの肚はきまっている)

家康は、ふだんよりもつややかな血色をみせつつそう思った。



(しかし弥八郎や万千代の意見もきいてやらねばなるまい)


この老人のむかしからのやり方だった。かれは信長や秀吉のように自分の天才性を自分自身が信じたことは一度もない。つねに衆議のなかから最も良好とおもわれる結論をひろいとった。自分に成案のあるときも、それを隠して衆議にはかった。結局はかれ自身の案を断行するにしても、衆議にかけることによって、幕僚たちは頭脳を練ることができたし、それを平素練りつづけることによって徳川家の運命を自分の運命として感ずる習性を養った。

2011年8月4日木曜日

【連載企画第103回】ジュエリーを本気で考える vol.23


■まとめ

私が社会に出てはじめの仕事はホテルマンでした。
当時のスタンダードな部屋は35,000円しました。
朝食も何もついていません、一部屋(2人用)の料金です。

大概、季節ごとに何かしらの割安パッケージプランがあって、
例えば、朝食込みで一人10,000円といったものがあります。
つまり、2人で20,000円です。
こうした割安プランは年間を通じてありました。

全く同じ部屋なのに15,000円も違います。
しかも、プランの方は朝食込みなのです。
プランによっては、その他特典がついてきます。

結局は、こうゆうことなのです。
つまり、「情報を知る人」と「情報を知らない人」の違いです。

ホテル側としては数字をあげたいので、
プランを知らない人には、スタンダード(35,000円)で
どんどん予約をとっていきます。

「何か安いプランはないの?」
と聞かれれば色々と案内しますが、例えば部屋が少なくなってきた場合だと
特にプラン予約は取らず、客層を見てスタンダード料金でとっていきます。

無論これが全てではありませんが、
世の中の価格の違いのひとつに、こんな仕組みもあるのは否めないでしょう。

ジュエリーも。
こんなものかどうかは、、、解りません。

解りませんが、業界側の人はジュエリー屋の“仕組み”が垣間見えます。
同じものでも価格の違いが大幅に存在することもしばしばあります。
どこのお店はどんなところに“付加価値”がつけられ、
それがどの様に価格に反映されているのか。

「ブランド」という付加価値に興味がなければその“ブランドコスト”に
お金をかける必要はないはずです。

こうしたように、ジュエリーに何かしらの付加価値があって
その価格が決まってくるとしたら、
自分が求める付加価値についてまず定めることが、
はじめの一歩なのかも知れません。

【連載企画第102回】ジュエリーを本気で考える vol.22


さて「価値」という言葉が出て参りましたので
これをもとにジュエリーを考えてみたいと思います。

とある本に、
「ジュエリーには4つの価値がある」
というものを見たことがあります。

一つ目は、装飾価値。
これが、我々がもっとも馴染みがあるものと言って良いでしょう。
現代の言葉でいう“ファッション”という意味合いもこれに含まれます。

二つ目は、観賞価値。
これはそのまま“見て楽しむ”というものです。
宝石コレクターが求める価値もこれに相当するものと考えられます。

三つ目は、お守り価値。
人類がはじめ装飾品を身につけたのが、この護身用としてのものでした。
現代ではパワーストーンに願掛けをする人も増えているようです。

そして四つ目が、財産価値です。
ジュエリーは高価な素材を使用しており、特に金はどの国の紙幣よりも
長い歴史があり、その価値がなくなることはまずありません。
ダイアナ妃に見られる婚約指輪の様に、欧米では親から子へ
“ジュエリーを受け継ぐ”ということがごく普通に習慣として見られます。

以上のように、ジュエリーとは見て楽しめ、身に着けて楽しみ、
想いが込められ、子孫にも遺していけるものなのです。

「受け継ぐ」とはいかないものの、不要になった時には世界中で換金できるものです。
勿論、相場に左右されますが、「中古」でこれほど高く換金できるものは
ジュエリー以外にありません。

近年の金価格高騰で解るように、もはや「投資」としても考えられるのが、
この財産価値を持つジュエリーなのです。

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